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☆ 山西省西南部から長安(現代の陜西省西安市)に入るには、愛飲家には馴染みの深い汾酒ゆかりの汾河を渡り、次に黄河を渡らないとならないが、円仁は舟を並べて作った長さ200歩(約300m)の渡船橋を840年8月13日に渡ったと記している。その3日後の8月16日にもイナゴの大軍に...

今まで主としてライシャワー博士(日本生まれの元駐日大使だが、若い時代に慈覚大師円仁研究で博士号取得した円仁研究の第一人者なることは、前に紹介済みだが)の「円仁唐代中国への旅」を基礎に紹介していたが、彼は分野別に整理しているので、時系列にまとめて紹介したい、...

五台山に近づくと普通院と云う簡易宿泊所が1-3㎞毎にあり、誰でも無償で利用可能であった。840年4月22-3日頃円仁は五台山に到着し、最初の5日間は竹林寺に宿泊した後大華厳寺に移り、一か月半滞在した。その間4日間の時間をかけて、五台山との名称の基になっている周囲の五つ...

  慈覚大師円仁は目的を達成できず839-7-22出航の遣唐使一行の船に同乗させられ、帰国せざるを得ない状況に追い込まれたが、置き去りにされたとして山東省東端近くにあった赤山朝鮮僧院に留まったことは前回記したところである。    赤山僧院所轄の文登県庁(山東省東端よ...

長江河口の北方に到着した後、円仁は揚州に行き遣唐使一行に合流したが、揚州に就いて若干紹介しよう。揚州は上海の上流250㎞、南京下流100㎞の長江北岸にあり、古代より交通と物資流通の重要な拠点であり、特に専売物資だった塩が大量に集配された。又漂流、失明、妨害と言う...

 慈覚大師円仁は空海や最澄同様遣唐使に随行する方法で唐に渡った。西暦838年6月13日に今の福岡県博多湾入り口にある志賀島出航したが、航行は難儀を極め揚子江(長江)入り口の北岸北方50㎞にある掘港鎮(現在の江蘇省如東市)に漂着した。 847年9月17日に博多に到着する...

  年号の「令和」の根拠となった万葉集が大変注目され、関連する書物が広く読まれ、新たな出版も多くなりそうである。前回も記した如く、庶民から天皇までの広範な人々の詩歌が、遥かな1,300年も昔に4,500首も集録されたことは、何度回顧しても素晴らしいと思う。その殆どは当...

5月1日より日本の年号は平成より令和に代わることになった。今上天皇の生前退位により改元される為、お祝いムードや便乗的商業活動が暫くは続きそうである。  後世の為、関連事項を若干記して置きたい。テレビや新聞全て令和が万葉集の梅を愛でる和歌、32首の序文「初春の令...

 最近の日中関係は比較的平穏であるが、米中関係ではアメリカの入超額が巨大であり、更に中国がアメリカの先端技術を不法に入手していること等が原因となり、緊張関係にあることはしばしば報道されている通りである。今では「死語」になっているが、共産圏への輸出にはココム...

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