☆ 山西省西南部から長安(現代の陜西省西安市)に入るには、愛飲家には馴染みの深い汾酒ゆかりの汾河を渡り、次に黄河を渡らないとならないが、円仁は舟を並べて作った長さ200歩(約300m)の渡船橋を840年8月13日に渡ったと記している。その3日後の8月16日にもイナゴの大軍に穀類を食い尽くされた村落を通過したと記録している。尚、黄河の流れは一様ではなく、円仁が渡った地点より7-80㎞上流が私の職場でもあった黄土高原の一角吉県だが、そこは河幅も狭く急流で落差2-30m程度ではあるが、滝があり壺口瀑布と呼ばれ、以前50元札の裏側に図案化され印刷されていた。不思議なことに更に上流の包頭郊外で見た時は長江に負けぬほど河幅が広く、寧夏の石嘴山市郊外では滔々と流れていた(黄河の見えるベランダがあるアパートで私は2年間生活し毎日の様に窓から見ていた)。
 ☆ 円仁は長安に入る前の8月19日に前の開成皇帝(文宗、1月4日崩御、享年32歳)の長く続いた山陵使一行に遭遇したと記している。円仁は8月22日長安に入城し、即求法学習を申請したが、宿泊寺院は度々替えさせられた後、浄土院に移住し一年余住むことになった。入城後幾多の寺院を尋ね、教えを請い多数の経典も購入し、各種行事にも参加した。特に重視した金剛界曼荼羅(マンダラ)は840-12-22に描き始め、841-2-8には描き終わったと記している。其の後胎蔵界曼荼羅等も写した由。841-8-7には帰国の請願をしたが認められず、帰国の目途も立たぬまま、時は経過し一年余り後の841-12-3には浄土院西院に移った。この間高級官僚、侍御史の厚遇を受けほぼ順調に求法学習は進んだ。
 ☆ 長安での風俗習慣として、冬至には日本の元旦同様賀詞交換をしてご馳走(精進料理だが)を食し、祝ったと記している。又お盆の習慣も日本同様で、先帝の追善法会等も行われた由。大晦日には“紙幣”を燃やし、爆竹を鳴らし(当時既に火薬があったことが分かる)、除夜の鐘を撞いたとも記している。但し当時日本では大晦日には家々が灯りを点けていたが、この習慣はなかったと記し、元旦には家毎に竹竿で幟(のぼり)を掲げて長寿を祈ったとも記している。
☆ この頃宦官の仇士良の権力は頂点に達し、進士出身者(科挙合格者)と門閥派との勢力争いも絡んで政争が激しくなったが、文宗の後釜の武宗が道教に傾倒したこともあり、唐の社会は乱れ始めた。仏教も頂点を極めたが腐敗堕落した側面もあり、円仁にとっては貴重な社会的見聞を深め、教訓を得たことは間違いない。更に廻鶻(カイコツ、現在のウイグル族祖先)が国境を犯したとして、長安城内のウイグル人数百人は勅命により惨殺された。それまでは融和策を講じていたが、降嫁されていた大和公主も843年2月25日に救出され長安に戻った。この頃僧尼や怠け者は一千万人とも言われたが、話半分としても500万人、当時の人口の約一割になるが、役務や納税の義務がなく、彼等所有の農地総計は数千万頃(ケイ、唐時代は1.6Ha/頃)とも言われ、大袈裟な数字と思われるが、国家財政を相当圧迫していたことは間違いなさそう。地方に派遣された大物官僚の私腹を肥やす傾向もひどく、一般的官僚の給与は差し引かれ辺境地への派遣兵士への手当てに回す程になっており、国家的屋台骨が揺らぎ始めていた時代でもあった。
 ☆ この様な背景もあり段階的に仏教弾圧が進んだ。先ず842年10月9日に腐敗堕落した(淫を犯し、入れ墨をし、物欲に流され、戒行を行わない等10項目を具体的に明示)僧尼は還俗させ、土地や財産も没収し官に収納するとの勅が下った。円仁の記録では843年1月17-8両日に長安だけでも左街1,232人、右街2,259人合計3,491人の僧尼が還俗させられたと記録している。武宗の道教への傾倒も更に進んでいくことになるが、続きは次回としましょう。


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