対中輸出業務に35年も従事してきた私ですが、中国での需要調査や販促活動については、今まで一切触れませんでした。1995年に商社を離れてから、随分時間も経過した上、中国の経済活動も様変わりした為です。然し、購入決定権を有し、財布を握っている処(人や部門)への接触により、需要動向をキャッチし、販促活動を推進することが重要と言う点では、古今東西変わりがないと思うので、昔語りになってしまいますが2回に分けて、参考までに披露しましょう。
1.ポイントは<常識にとらわれず、競合他社が想像もしない、又は軽視しているところを重視した>の一言に尽きます。1980年代以前、輸入品の顧客の大部分は、国営企業や行政管理下の組織(大学、研究所等)が占めていました。又買付け窓口は国の対外貿易省直轄の20未満の貿易公司(会社)が独占し、地方には分公司があっても対外的買付け権はなく、1978年末に発表された改革開放政策により、段階的に分公司も営業権を獲得しました。更に貿易省以外の40余の国の省庁傘下にあった商社類似の公司も、対外貿易に参画できる様になった。私が上海に代表事務所を開設、初代所長となった1980年頃より各省庁傘下の公司の地方分公司も対外営業権を取得した。2-3年で対外買付公司は、20社未満から10倍以上に増加した訳です。これは大きな分岐点でしたが、その前の1972年9月の国交回復前後も大きな分岐点でした。国交がない日中関係は民間交流時代で、我々商社マンは建前上政府機関への出入りが出来なかった訳です。

2.多くの商社は数少ない貿易公司への売込みに集中していましたが、世界中から売込みがあり、先方は役所仕事であり予算付の買付依頼がなければ動かず、カタログや技術資料を渡しても、資料室に回送されて保管されるだけでした。潜在的顧客は自分の方から貿易公司に出向き、資料室に入り分野別に保管された資料を探す情況でした。一方1960年代初頭から数は少ないが、学術訪問団の来日があり工場見学等の折、名刺交換するとxxx学会の身分になっているが、聞くと実際は省庁の上級役人である場合が少なくありませんでした。従い北京や他の都市でも学会名義で会って頂き、販促活動をした次第です。その前から、当時取り扱っていた理化学機械は英国出版の中国の研究所や大学の名簿的な書を利用してD/M方式で宣伝活動をしていましたが、直接面談できる機会を徐々に増やして行き、文革中でも続けました。スパイの嫌疑をかけられないよう、北京飯店等ホテルのロビーや会議室等人目に付くところで面談する様にした次第です。我々の身元引受人である中国の貿易促進委員会には国家科学技術委員会からもスタッフが出向しており、彼等と相談し技術交流と称して製品の宣伝活動をしました。
80年代以前の中国では、外国の情報が極度に欠乏しており、彼等は日本の商社や輸出志向のメーカーの宣伝活動と分っていても、この“技術交流”には喜んで参加したものです。当初、多くのライバル商社は、予算が付くかどうかも分らない活動と看做していましたが、やがて真似する様になりました。又競合他社に覚られない為に、団体主催の展覧会出品以外に、単独で小規模な展示会も再三開催し、販促活動を補強しました。
更に形式にとらわれず現地にアフターサービス機能の設置もしました。-続く- 
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
Mail add. Knhr-yana-@jcom.home.ne.jp