前回予告した「何故菅原道真は学問の神様に祭り上げられたか」に就いての私見ですが、下述するのは結果的には円仁こと慈覚大師です。両者には共に学究肌の人間で嘘やはったりとは無縁な人物と思われます。多少なりとも歴史に関心のあるお方なら、250年有余続いた遣唐使の派遣は菅原道真の進言により894年より停止されたことはご存知でしょうが、当時既に閑職と見なされていた太宰府長官として藤原一族により左遷されました(901年)。当時日本は中国大陸から吸収すべき事柄は、少なくなっていたことは10年近く大陸に滞在した円仁の詳細な日記等により判明していたと思われ、対外的な窓口であった大宰府の存在意義も低下していたと思われる。今で言えば国境警備兵である防人(さきもり)の常駐地でもあったが、派遣者家族等、誰からも歓迎されなかった。道真の赴任の際に残したと言われる「東風吹かば匂い興こせよ梅の花、主無しとて春な忘れそ」和歌にも悔しさがにじみ出ている。

では何故遣唐使の派遣中止を天皇も受け入れたのでしょうか?それは上記円仁等の大陸の情況は悪化しており、新たに得られるものは少ないとの情報がある程度共有されていたからだと見られる。円仁も道真も学究肌の人間で、且つ直言居士で真実を極めようとの意欲が強く、天皇家には重用されたが、摂政関白など取り巻連中には煙たがれていたと推察されます。歴史を回顧してみれば、当時の日本は平安時代の隆盛期に入り始めた時代で、藤原道長がわが世の春を歌ったり頼道が宇治の平等院を建てたりしたのは、更に100年余後である。一方中国大陸の唐は、道真が大宰府に赴任した901年の僅か6年後には滅亡し、朝鮮半島は高麗により統一され、大陸の方は北宋となり、その後には南宋となっていった。

  円仁は808年15歳の時に最澄に師事し、比叡山延暦寺で29歳まで修業したが唐に渡るのは天候などの原因で2回失敗し、3回目の838-6-13に博多を出港し、同年7月2日に揚州(揚子江北岸にあり南京の手前で、奈良時代に来日した鑑真和尚の出発点でもあった)に上陸したが、希望していた天台山等には行けず、幾多の問題で翻弄され、中国各地を動き回り帰国したのは847-12-14と十年近く経った後だった。30年余前入唐の最澄や空海の滞在期間が一年間前後だったのとは対照的であったが、学ぶものも多かった。日本にとって大変ありがたいことは、彼は探究心が大変強く、更に長期にわたり日記に記録し、それを持ち帰り報告書にまとめて上奏したことです。

更に近代に至りその日記内容を解読し70年近く前に書物にまとめた人が居たことである。なんとそれはアメリカ人であり、駐日大使にもなったライシャワー博士である。最初は英語版であったが、60年前に和訳版が出されたので、私はそれを購読したが318ページに及ぶ大作であった。彼は日本生まれでハーヴァード大学(燕京研究所所長でもあった)、パリ大学を出て東大や京大でも研究活動をされ中国や日本の歴史にも精通された学者でもあった。原文は「入唐求法巡礼行記」であるが、和訳版は原書房から「円仁唐代中国への旅」として出ているので、興味のある方が図書館で閲覧されるようお勧めしたい。

印象に残った点は、中国の仏教界は腐敗堕落したこともあり皇帝から弾圧されたこと、民間の文化レベルや生活レベルはあまり高くなかったこと、仏教聖地である五台山(太原市の150km北方にあり、私も訪問したことあり)訪問は民間でも好かれていて、日本のお伊勢参り同様周辺の通過地点の人々の親切な対応対を受けられたこと、移動に伴う役所の手続きは近代同様煩雑だった(改革開放前は出張など中国内移動には旅行証が必要だった)、山東省東端部には新羅人(朝鮮人)の居住地があったこと、唐での諸費用は砂金を持参したが追加が必要な場合日本からの来訪者に砂金が託されていた等々であるが、マルコポーロの東方見聞録よりも真実を記していると思われ、皆様の一読を推奨いたしたく。

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