前回、日本の国としての中国への援助プロジェクトの現地拠点での勤務時の体験や見聞を紹介

しましたが、読み直してみると簡略過ぎたと思われるので、若干補足しましょう。

  1. 戦前の日本の侵略による被害に対する賠償を、1972年の国交正常化時の交渉で、中国は辞退したので、日本は国として大々的且つ継続的に援助してきたが、総額3兆円を超える大規模なものでした。主要なものは空港、港湾、橋梁、高速道路、工場建設などでした。技術援助等はJICA(ジャイカ)が担当したものですが、古代文化では中国は日本の父母の如き存在だったとの強い自負心が、日本からの援助は「欲しいが、恥ずかしい」との思いを引き起こし、広報面では強い抵抗感になっていた。それが前回紹介した広報塔建設に難渋した原因である。

  2. 1997年に改訂されたばかりの、中国の森林法全文を日本語に翻訳したことがあるが、業者と伐採など許認可する権限のある地方行政機関を厳しく取り締まる為、監督機関を設け、更にその監督機関を監視する制度まで作り、罰則も2倍、3倍の植林を義務付ける等大変厳しい内容に驚いたが、必ずしも順守されていない状況でした。例えば1999年に黄土高原のプロジェクトで勤務していた時、車で現地に到着する数時間前に同乗していた同僚の北京林業大学教授が、樹木のほとんどないある山すそを指さし、「10年前に植林したところだが切られた!中小炭鉱が坑道を支える油圧支柱は高くて買えないので、代用する為に切ったのに間違いない。10年位の木は太さとその弾力性から代用になるからだ。」と嘆いていたことがある。

  3. 前回「分洪政策」について記したが、日本では想像することもできない“大の虫を生かすため小の虫を犠牲にする”政策である。人口一千万近い武漢市を守る為、長江上流での降雨が多く武漢市内が洪水に見舞われそうになったら、上流の所定の堤防を故意に決壊させ、広大な農村地帯に分流し、後日補償するとのことだったが、残念ながらその詳細は不詳だった。

  4. 日本の援助で植林した黄土高原は高原全体の東南部に位置する地帯であったが、全くのはげ山と言うことではなく、土地の大部分は傾斜地となっている。そこで僅かな降雨があった時には、樹木の根元に水が流れ込むように、4-5mの漏斗状に土を盛り上げ畝(うね)にしている。更に傾斜がゆるやかなところでは、漏斗の直径10数mから2-30m程度の土地を畝で囲い、一番低い場所の地下にコンクリートで貯水庫(水窖、スイコウ)を作り、溜まった水は生活用水とする他、果樹園や農地にホースで運び点滴式で注水する訳です。こうした農地の作物は良く育っていたが、特別な注水をしなかったところは、見るからに貧弱な生育状況でした。

  5. 前回1,200Ha(3x4km)の植林の結果、崖から滴り落ちる水が、清水の流れになっていたと記したが、その崖の下には10x6-7m程度の貯水庫を作り、電動ポンプも設置し、山の傾斜地に点在する民家に送水していた。これらの費用は土地の人達も出したが、地方自治体である  山西省や吉県からもかなりの援助があったとのこと。尚、吉県は人口10万人だが、財政の8割以上は国や省からの交付金で賄われている貧困地帯だった(1,999年時点で)。

  6. 日本から吉県への援助は、植林の他に治山治水事業を効果的に実施する為、一番大きい谷川には貯水ダムも作られ、その他の谷川数か所には流水の変化を調べる観測堰もあったが、多くは損壊していた。護岸工事がいい加減で、セメントが薄皮饅頭の如く貼られていたところが多かった。その為修復工事では、完成後誰にでも出来る打音テストにより耐久性を確かめ、不十分な所はやり直しをさせた。

      この吉県の西方を流れる黄河には、五十元札の図案にもなった壺口の滝がある。尚黄河の水量は長江の十分の一もなかった。黄土高原や湖北省には中国人でもあまり知らない所も多いので、次回更に補足しましょう。

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