文革は、実権派とか走資派と呼ばれた劉少奇や鄧小平に代表されるグループと毛沢東、林彪に代表される“教条派”との権力闘争であり、用済みの紅衛兵は農民達に学べとして、中国西方の貧困地帯に追いやられたが、皮肉な現象が現れた。“教条派”の主張のポイントは、格差排除、平等主義、労働者重視であったが、文革中でも既にこの趣旨に反する事態が発生していた。
1、 四人組の誕生:毛沢東に信任されNo.2と言われた林彪は、毛沢東に替わろうとして発覚、家族共々、1971年9月飛行機で逃亡中にモンゴルで墜死してしまった。ところが今度は毛沢東の第四夫人の江青中心に張春橋、姚文元、王洪文等四人組が実権を握り始めた。1973年8月には党の大会で、揃って政治局委員となり、毛沢東より絶対的に信頼されていた周恩来を追い落とそうとして、批林批孔なる運動を始めた。現状維持派として、孔子の名を利用していたが、誰の目にも周恩来を指していることは、現地で生活していれば容易に分かった。
2、 腐敗した特権階級を排除するはずの四人組は、贅沢をし始め、北京の故宮の北側にある景山公園はある日突然一般公開を中止してしまった。景山公園にある人工の丘は高さが30m余あるが、元々は北海公園の池や故宮周囲のお堀を掘った土を積み上げたもので、故宮の全貌を見渡せる処として、観光客や市民に愛されていた。後日乗馬が好きな江青専用の乗馬場になってしまったことが判明した。更に江青はポルノ的な映画が好きだったとのことで、個人用として極秘にそのような映画を香港等から輸入し、旅先にまで映写機など携行したことも判明した。
3、 文革が始まり3-4年すると従来の政治機構が否定され、革命委員会なる組織が市、省等段階毎に設置されていた。そんな中で、1972年1月に私は天津で自社単独で小さい展示会を開催し、現地で運営に当たった。展示会は順調に進み、展示最終日に現地でお世話になった方々への答礼宴会を開こうとして、事前に展示会受け入れ団体である中国国際貿易促進委員会天津分会の担当者に、どんな人達を招待したらよいか名簿を出してくれと頼んでおいたが、出てきた名簿の人達は天津市革命委員会の人達が多く、その殆どは展示会とは無縁であった。当時外国人の開催する宴会に出席できることは大変貴重で、名誉なことと理解されていたが、
これを容認したのでは文革の精神に反するのできっぱり断った上で、展示会に直接協力した人達は全員招待するので、その積りで名簿を作り直してくれと依頼した。その趣旨通りの名簿が出てきて、計81名であった。凍り付くような夜も交代で、展示品の警護をしてくれた解放軍の若い兵士、掃き掃除やお茶出しを担当したおばさん達、運輸関係者、大工、美術工等も含んでいた。半数以上は外国人の宴会等に呼ばれることは夢にも思わなかったらしく、宴会の九卓を回ってお礼の乾杯をしようとしたが、みんな同意せず一人ずつで乾杯だとして譲らず、茅台酒(マオタイシュ、56度ある)を81杯以上飲む羽目になってしまった。
4、 文革中は歴史的文物が否定され、破壊されることが多かった。その為か殆ど全てが偽物か複製品と言われていた骨董品街、瑠璃廠に本物が放出されているとの噂が在京日本人の間で広がり、私も若干買い求めた。友人の一人は大量に買ったが帰国後あまり考えず知り合い等に配ってしまい、後日失敗したと言っていた。結婚式も現在は大変派手になっているが、休日に学校の教室を利用して披露宴をやっているのを、たまたま見たことがあるが楽しげであった。
5、 当時はスパイ容疑にかけられる恐れが大きく、“技術交流”の打合せを兼ねて商業情報を入手するには、貿易公司の商談室で会うとか、政府省庁の会議室で会う他は、意図的にホテルのロビー等、人目につくところで会っていた。


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