今後中国問題のみではなく、枠を広げて参考になりそうな事項を紹介していきたい。
先ずはミサイルや核実験で物議をかもしている北朝鮮への訪問記。
実は北京に長期滞在していた時、突然社命により北朝鮮に行くことになった。随分昔の1972年11-12月の一か月半だった。当時の北朝鮮は現在ほどの悪評はなく、拉致問題が生まれる等とは信じられなかった。1959年頃より戦前からの在日朝鮮人達の中で“地上の楽園”と化した祖国に帰ろうとの運動が起き、60年代初頭迄に8万人以上が帰還、その後急速に人数が減ったとは言え1984年までに93,340人が帰還したと言われる。1970年頃には地上の楽園ではないが、韓国よりは豊かであると見られていた。そんな状況下であったが、細々と日朝貿易が行われ、年間3000万ドルを目標にしようと、日朝貿易業界で叫ばれた。以上のような背景の中で;
1、 北京に長期出張していて、そろそろ帰国しようかなと思っていた私に急遽ピョンヤンに行けとの社命が下った。「北朝鮮当局から17の商社を招待して商談をしたいとの連絡が、業界団体にあったが、その中に我が社も含まれている。断ると将来に悪影響が出る恐れもあるし、本社から人を出す程でもないので、君が横滑りで行け」との趣旨だった。
2、 当時のパスポートには「北朝鮮は適用外」とスタンプが押されており、北京飯店内に開設されたばかりの仮設日本大使館に相談に行ったところ、妙案が提示された。「本来パスポートの二重発行は違法ではあるが、この場合は止む得ないので、一次パスポートを発行しよう。北京を離れるときは現有パスポートを使用し、ピョンヤン入出国には新しいパスポートを使いなさい。絶対に間違わないように!」と釘を刺された。
3、 北京空港食堂で他社の代表たちと落合い盃を交わし、空路ピョンヤンに向かった。空港施設は北京同様極めて貧弱であったが、市内に近づくと当時中国にはない2-30階建ての高層アパートが林立し、又建設中のも多かった。宿舎は新しい23階建ての普通江ホテルで同名の公園内にあり、公園内は自由に歩けるが公園から出ようとすると、必ず“案内人”がついて来た。街には反日分子が居ないとも限らず、安全の為だとのことだった。公園内を散歩中の中国からのビジネスマン達にもで会ったが、彼等も勝手には公園外には出られないとのことだった。東京や北京との国際電話はホテルの各フロアーにあるサービスカウンターでしか話せなかった。理由としては時々通話が中断することがあり、通話時間(即ち料金)の計算でのトラブルを防ぐ為として、“案内人”が近くに座り傍聴していた。当時の業務用通信手段であるテレックスはホテル一階フロアーの片隅にあり、担当者が同業者達の目の前で受取人毎に切り取り渡してくれた。
4、 商談は中国人程厳しくなく、北京から持参したカタログ等で宣伝し、一億円余の機械設備の輸出契約は出来たが、契約書フォームも準備されてなく、やむなくA4の白紙に私が手書きで作ったほどである。然し後日北朝鮮から開設された信用状(L/C)は信用がならず無効と判定され焦げ付きとなり、業界全体としても大問題となった。
5、 街中で見かける女性は殆ど、スカート姿で男性は背広にネクタイで、当時中国では男女共に人民服(作業服の如し、然し清潔)だったので、中国よりは豊との印象を与えたが近くで見ると何か月も洗濯してない様だった。ドルショップには輸入品含め品数も豊富だったが、街中の商店は数も少なく、生鮮食品は乏しかった。ホテル食堂のご飯はコシヒカリの如く美味であったが焼肉は皿盛で冷たくなっておりがっかりだったが、シンセン鍋だけは良かった。北国に関わらず韓国より豊かだと、当時の北朝鮮の人達は自慢していた。


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