寧夏での任期を3年に延長するよう要請があったが、かかったことのない気管支炎に2回もなってしまい、健康第一と考え2004年7月末に帰国することにした。寧夏回族自治区内でも銀川は美しい都市だが、石嘴山市は、「空気汚染倒数第4」即ち人口10万以上の都市が中国には600もあるが、その中で空気の汚染度は悪い方から4番目と言われた石炭の街だった。事務室勤務の多い私ではあったが、トイレに立つ度に手を洗うと黒い水が手から流れた。愛用した辞書なども、持ち帰る気になれず会社に寄贈した。中国人スタッフは昼食前でも手を洗う人たちは少なかった。空気中の石炭微粒子からの汚れには害毒はないから手洗い不要と習慣的に思い込んでいるようだった。
2005年1-6月の半年間、上海進出の自動車関連企業の初期手続きや諸手配に従事、次回その半年間を若干紹介致します。
1. 上海には1965年11月―66年1月,1980年4月1日から翌年3月末と2回長期滞在し、更にしばしば出張、特に1985年9月より6年間北京駐在時は上海事務所の所長も兼務したので毎月の如く出張したが、余り変化発展はなかった。復旦大学の学長まで「上海は北京に搾取されている」と嘆いた状態だった。1992年深圳など南方を視察した後上海に来て、鄧小平は「しまった!上海も経済特区にすべきだった」と嘆いたくらい、上海の発展が遅れていた。本格的な上海の発展は1993年からと深圳からは10年余も遅れての本格的改革開放となった。 
2. 3回目となる2005年1月からの長期滞在時、眼にした上海はすっかり変わっていた。職場は上海市西南部郊外の松江区の新しい開発区にあった。松江区は古代には比較的発達していた地区であったが、新中国成立後は半ば農村地帯であった。居住地は中山路に囲まれる上海旧市街地中山西路と動物園との中間地点の古北新区、水城南路にあったが高級住宅街の名都城の北側でもあり馬蹄形を形成していた。最多人口は日本人で日本の食品店が3軒あり、日本食レストランも沢山あり恰も現代版の日本人租界の如き様相を呈していた。 4月は日本の国連常任理事国申請の動き等に対する暴動騒ぎもあったが、現地の中国人は異口同音に「心配無用、私たちは中日友好です」と言い、どうやら“やらせ”であった。日本総領事館に投げつけられた生卵や飲料の痕跡が、長期間未処理だったのは、何とも不愉快であった。
3. 永年続いた旧態然の上海も、鄧小平の南方巡行後の談話により急速に発展し、2005年には30階以上の高層ビルは1,700もあり日本全国より多いと言われた。以前は殆どが農村だった浦東地区には特に高層ビルが集中し、基礎工事を含めて耐震建築基準が日本より甘く、万一近くでマグ二チュード7級以上の地震があると大変なことになると、華東地区の地震の歴史を調べたと言う日本の知人は心配していた。崇明島は長江の中州で、面積は沖縄本島より一回り大きく1,220㎢もあるが、唐時代以降土砂が堆積して形成されたもので、大洪水があると島が流失し縮小するので近代に至って上流部をコンクリート等で補強した由。現在は下流側(東側)が成長し続けている。

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