前回華国鋒に向かって言ったという、「君がやれば安心だ」との毛沢東の遺言は上海虹橋空港の搭乗口前の待合室の壁面に、大きな画像として描かれているのを,1980年上海駐在時代に見て違和感を覚えた事があるが、その華国鋒と云う人は温厚で、何事も無難に対処しようとしている人だと云う印象以外、政治的能力等格別な印象はなかった。
1、1978年末に鄧小平により改革開放政策が発表されると、殆どの中国人により、熱烈に支持され私の勤務する会社の北京事務所には連日多くの国営企業の責任者が「合作しましょう」と言いに来た。国としても企業としても具体的方法論が確立しておらず、殆どの提案は「私のところには工場建屋と人がいるので、自由に活用して良い。日本から設備と技術を持ち込んで何でも生産可能である」と云うものだった。その後材料、図面、見本を提供してくれれば、ご希望のモノを生産してあげます(来料加工)、技術を提供してくれれば製品で対価を払います(補償貿易)と云う方法が具体化して行った。以上の方法をまとめて「三来一補」等と言った。とにかく当時の中国は貧しく、国力も小さく、戦後わずか20年余で世界No.2の経済力と高度の技術レベルに達した日本はまるで魔法の国の如く感じていたようである。尚、当時の鄧小平は副総理に過ぎなかったが、既に実権を握っていた。
2、以上の如き背景の中で、今では絶対に考えられないような体験もしたので紹介しよう。人工衛星打ち上げ用ロケットを生産していた工場も予算不足の為、彼ら独自の「高技術」を利用して合作したいので工場を見てくれと言われ参観したこともある。尚、この時は中国人である事務所の運転手は機密保持の為として、工場敷地内には入れて貰えなかった。更に驚いたのは人工衛星のテストセンター(地上に宇宙空間を再現する)も参観した。丁度1990年前後のバブル景気が最高潮の時、多くの日本企業はアメリカに行って何でも買ってしまおうとしたことがあるが、常軌を逸していたと云う点では同じと思われる。航空工業部(省)の幹部は、「山東省に良質の大理石が沢山ある山を持っている。採石設備やクレーン、トラックを持ってきて好きなだけ採ってくれ。設備代は大理石で支払いましょう。」との提案までしてきた。類似の動きは各地各省で沢山あり、その後徐々に具体化して行った。墓石や建築用石材の多くが今では大量に中国から輸入されていることは、周知の通りである。
3、1980-81年私は上海にも代表事務所が必要との社命を受けて赴任して、丸一年駐在したが、当時の上海は大変遅れており、10年余も後で鄧小平は、深圳などの発展ぶりを視察した後上海にも行き(南方巡行)、上海の改革開放が遅々として進まないのを見て、「失敗した。上海も改革開放都市に指定すべきであった」と述懐し、再号令をかけた。当時の上海人は北京に対して恨みを抱いており、復旦大学の学長までが「従来上海の経済、科学技術が北京や他地域より高いので、国は上海に再投資せず搾取ばかりしている」と嘆いていた程である。
4、日中関係全般状況も今では考えられない程、良好で中国側は日本に対して秋波を送っていた。やはり「事大主義の発露」であった。中国政府首脳が相次いで来日。例えば1978年10月には鄧小平が来日、新幹線に乗車、そのスピードに感嘆し、新日鉄の君津工場の自動化レベルに驚嘆した。帰国2か月後の改革開放の大号令に大きな影響を与えた。翌79年には華国鋒、82年には趙紫陽、83年には胡耀邦と相次いで来日した。今では考えられない様な状況であった。


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