中国の年配者と文革中の情況を話し合うと、みんな紅衛兵の犠牲者だったと言う。これはウソです。45年前の1967年、天津・北京駐在中の私は、中国側より日本人紅衛兵と言われたが、当時中国の若者は殆ど紅衛兵の腕章を付けていました。「犠牲者と言うなら加害者でもあったはず」と当時の体験と見聞を話して、問い返すとみんな黙ってしまいます。確かに一部の若者は、傍若無人の振る舞いをしましたが、90%以上の紅衛兵は、毛沢東語録を読み、討論会や諸活動に参加していて、あまり勉強もせず生産活動もおろそかにしたのは確かです。「犠牲者だった」各種回顧録が沢山出版されていて、実情が忘却の彼方に押しやられているので、3回に分けて体験談を紹介しましょう。
☆ 我々商社の駐在員は学習会や参観活動にしばしば勧誘されていたのは事実ですが、一部日本のマスコミが商社の若者達が軍事教練を受けていると、報道をしましたが、事実ではありません。天津近くの楊村部隊(解放軍の駐屯所)や広州空港奥の白雲部隊
を見学したのを、誤解したものと見られます。見学のポイントは、駐屯所では農業を営み殆ど自給自足の状態だったのを紹介してくれたものでした。解放軍の一人当たり手当は僅か月5元(当時大卒の初任給は45元)と聞き驚きました。
☆ 面白い現象として、左翼的商社マンが多かった時代ですが、業界仲間中では右翼と呼ばれていた私等は、中国側より何の嫌疑も受けなかったが、スパイ容疑をかけられた日本人は主として、思想的に中国側に近かった人々でした。商談の際には先ず語録を読み
時には革命歌を唄いましたが、国営の貿易公司の担当の方々は我々外国人に同調を求めるのをためらう傾向もありました。そこで、むしろ我々の方から率先して、「xx頁を
開いて」(日本語版もあった)と誘いかけ、革命歌(殆どは有名な民謡の歌詞の入れ替え)を唄ったものでした。メーカーの長期出張の若者達と共に、こんな経験は一生に一度の貴重な体験として、大いに楽しんでしまった訳です(本当に犠牲になった人々には申し訳なかったが、我々周辺や参観先では武闘騒ぎはなかった)。
☆ 仕事には確かに多大な影響があり、より過激な権力闘争や武闘騒ぎの情報を捜し求めている新聞社の特派記者達には、「貴方達が羨ましいですね!」と言った位でした。我々日本人”紅衛兵“は、天安門前広場での毛沢東の謁見大集会(100万人が集合)では観閲台の天安門中央寄りに招待され、毛沢東や林彪の姿も鮮明に写真に撮ることが出来、日本の新聞記者(彼等は観閲台の端の方だった)に頼まれて、配布した程でした。
☆ 何処も彼処も「大字報」だらけだったのは事実です。紙や墨の生産量の多さと、達筆家が多いのには心中驚愕した次第。紅衛兵との座談会では率直に話し合い、日中双方の若者の生活状況を紹介しあった時、日本の生活レベルが当時の中国とは比較できないほど高いのを知ると、中国の紅衛兵は「テレビや自動車を買おうとしないで、アジア・アフリカ等で解放闘争をしている人民を援助し、国際的連帯を示すべきだ」と言ったのに対し、日本の若い出張中の技術者は、「君達は不労所得は搾取であり許さないというが、そんなことすれば、彼等の不労所得になり搾取と同じだ。自分で働き稼ぐべきだ」と反論したが、そこで中国側の紅衛兵は話題を変えてしまった。-続く-
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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