長江河口の北方に到着した後、円仁は揚州に行き遣唐使一行に合流したが、揚州に就いて若干紹介しよう。揚州は上海の上流250㎞、南京下流100㎞の長江北岸にあり、古代より交通と物資流通の重要な拠点であり、特に専売物資だった塩が大量に集配された。又漂流、失明、妨害と言う幾多の困難を乗り越え、渡来された鑑真和上(688-763)の出身地でもある。当時僧侶になる資格(戒律)を正しく認定する規定が日本にはなく、聖武天皇が指導、認定者(授戒者)たるべき人物を探し求めている旨、入唐僧から聞き周囲の反対を押して来日を決意された(西暦742年)。743年から日本への渡航を試みて、5回失敗、754-1-9 やっと屋久島に到着、奈良には754-3-1に到着した。聖武上皇に歓待され、娘である孝謙天皇の勅により東大寺に住み、戒壇を設立、授戒を始め、唐招提寺を創建、貧民救済の為に悲田院も作ったが、弟子の創作である鑑真坐像は日本最古の塑像としても有名である。尚鑑真の修行された大明寺は今も揚州にある由。揚州は日本とも縁の深い土地柄である。
 円仁が目的地としていたのは師匠でもある最澄も学んだ天台山(浙江省杭州東南230㎞)に行くことであり、地方官(節度使)を通じ長安からの許可を待っていたが、838-9-13に不可との回答があったことを数日後知った。中国側より揚州の開元寺に移され再度要請していたが、大使一行は10月5日には長安に出発した。それに先立ち旅費として大使より滞在費として砂金10両(500g)を渡された。以前から入唐者の旅費は砂金で持参、更には後発者に託送された。但し円仁は日本の僧侶として、各地で歓待され宿泊費含めて旅費を自分で出すことは稀であった。尚大使一行270人が長安に到着したのは59日間も要し、12月3日だった(通常は2週間程度)。又皇帝への拝謁は大使等二名のみで839-1-13になったが、唐の正史には同年、「日本人により再び貢物あり」と記されたのみであった。順位もタイ国の次であり、形式だけであるが、中国式冠位が授与された由、冊法体制誇示する意図だったと見られる。

 遣唐使一行は839-2-12に長安から戻り、揚州北方の大運河の交通拠点、楚州に到着、円仁や円載等全ての日本人は大使から揚州から楚州に呼ばれ、同名の開元寺に泊まった。
帰国止むなしと観念していた円仁に中国僧、敬文が天台山より来訪し矢張り天台山に行くべきと勧めた。彼は円仁の師匠である最澄に805年に会った時のことを縷々伝えた。山東省に拠点を置く朝鮮人通訳、金正南が特別な便宜を計ると言うので、過分な金子(砂金)等与えて、円載共々帰国せず留まることを決意した。大使は仏法の為なら反対はしないが、若し唐の役人に知れたら勅命に背いたことになるので、よくよく考えよと警告した。
3月19日地方官(楚州の長官である刺史)の告別宴があったが大使のみは、格が違うとして欠席した。3日後日本人一行は船上の人となった。円仁も一応第2船の人となった。
 再三船は吹き戻され、本船が離岸したのは5月21日、円仁の乗船した船は青島に漂着、これ幸いと上陸したが官憲に捕まり、船に戻され更に離岸したが北に流され、山東半島東端近くに漂着、その後も再三吹き戻されたが7月22日に日本に向かって出立した。
大使一行は赤山を出て3週間後の8月14日に九州北部に帰着、一方円仁等三人の日本人は赤山朝鮮僧院に置き去りにされたとして、唐の地方官により調査されることになった。


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