集団管理(1)では文革中の一断面を紹介しましたが、当時は各地を“無銭旅行”した他北京や天津郊外の工場、人民公社、学校等参観活動にも毎週の如く参加しました。
勿論映画、歌舞音曲の鑑賞等もあり、「白毛女」等はバレーになったのも見ました。文革で筋書きが変更されたのも含め、都合10回以上は“鑑賞”したことになります。
90年代以降多くの中国人が「紅衛兵の被害者だった」様なことを言うのには、違和感を覚えました。と言うのは当時若者の殆ど全てが紅衛兵だったからです。被害者と言うなら加害者でもあったはずです。又実のところ何処を見ても武闘騒ぎはなく、それは一部の人々の間の出来事だったと確信します。かなり管理されたものだったと思います。
 ところで文革終末に近い1976年7月28日早朝4:53唐山大地震が発生して甚大な被害が出ました。当時駐在ではないが半年近い長期出張をしており、北京旧市内の東南角の新僑飯店と言う安宿に宿泊していました。当ホテルには商社・メーカー等経済活動に従事していた外国人(エアフランス等一部航空会社のスタッフも宿泊)の定宿でしたが、建屋は極めて頑丈な造りであった為一切被害はなかったが、二環南路沿にあった古い民家は軒並み崩壊し、北京でも300人以上の死者が出たとの街道消息(町のニュース)が
ありました。此処で特筆したいのは3点あります。
1、 当時中国での長期滞在外国人に対する気遣いは大変周到であったと言うことです。
地震に慣れている我々日本人は、同ホテル内にあった事務所に被害がないことを
確かめると再度寝てしまいましたが、朝8時ごろには中国側手配により労働人民文化宮(本来故宮の一部)に避難をさせられました。強い余震の発生を恐れた避難所暮らしではあっても、正常な仕事が出来る様、通信手段の確保、臨時の食堂の設置、真新しいテントと簡易ベッド、トイレ等設置されており、理髪店までホテルから移っていました。安全管理も徹底していて、慰問に来られた日本大使館スタッフも中には入れて貰えず、入り口まで慰問品受け取りに出向いた程でした。
2、 対照的だったのが、北京の一般住民の生活でした。日本では内陸部で大きい地震があると、「先ず火を消せ!」となりますが、中国では「先ず外に出ろ!」となります。燃え易い木造家屋の多い日本に対し、崩れ易いレンガ造りの家屋が多い長年の習慣に根ざしていると思います。従って北京中の殆ど全ての住民は歩道や空き地に自分で、ビニールシートや布を張り巡らせ、夜間の睡眠場所を確保していました。
日中は自宅で正常に生活し、仕事もしながら夜だけは寝具を持参し自分で確保した場所で一夜を過ごした訳です。驚いたことに、こんな異常な情況にも拘わらず盗難等大した混乱も発生せず、異常事態への中国人の適応力に心中感服したものでした。
3、 中国が開放政策に転じた後は、経済発展に反比例してモラルレベルが相当低下してしまったのは残念ですが、30年位前までは盗難等少なく、文革中と雖も今よりは安全だったのは確かです。香港ではホテル、デパート、住宅地にガードマンが居るのを大陸の中国人は笑っていました。当時は相互監視が厳しかったとか何処も貧しかったと言う中国人もいますが、どんな理由であれ安全、安心な生活が出来ることは良い事ですので、いずれ回復するのではないかと期待をしています。

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   柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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