前回に続いて唐山大地震に就いて説明しましょう。未曾有の大地震の発生で当局や庶民がどんな風に対応したかを知るのは有意義と思うからです。更に私の個人的体験として地震発生の9年前に唐山には列車で訪問しており、駅の施設が文革初期にも関わらず、カラフルな玩具のような可愛い駅だったとの鮮明な記憶があったからです。当時市の招待所に宿泊し、翌日紅衛兵の経験交流を真似て唐山の北方50㎞にある沙石峪(当時第二の大塞と呼ばれ、極悪な自然条件に挑戦し豊かな農村にしたとの、自力更生のモデルだった。文革後夜中に人目を避けて解放軍が協力したこと判明)見学の為、悪路をバスに揺られて訪問した。石ころだらけの土地に桃やリンゴも栽培する豊かな農村風景を目の当たりにしたが、駅舎、招待所共々壊滅しただろうと思わされた。
1-1.地震への中国政府の対応はあくまで自力更生の精神を発揚して、日本だけでなく諸外国の 援助を全て断り、膨大な人力を投入して再建の迅速なことが再三報道された。3ヶ月後の10月には文革中頭角を現した「四人組」は逮捕されたが、その後も自力更生の方針は貫かれ、貧しいながらも気骨のある方針だなと、当時は感銘を受けた次第であった。
1-2.北京の街中を見ると、地震の後長期に亘り、一般庶民は余震を恐れて、歩道、空き地、公園等に有りあわせの材料でテントを作り夜間の寝室としていた。さすが10月頃になると夜は冷え込むので、急速にテントは減少した。住宅はレンガ造りとの伝統文化を有する為、余震により頭上にレンガの壁や天井が崩落するのを極度に警戒する習性となっており、「先ず火を消せ」と言う日本人とは全く違うことを見せつけられた。尚、“副作用”として「デキちゃった婚」が増加したと後日聞かされた(一人っ子政策前で人々はおおらかだった)。
1-3.我々への対応をもう少し具体的に記すと、8人用テントには七つの簡易ベッドが配置され、八人目用ベッドの位置にはサービスカウンターが置かれ、大きな魔法ビンが二本常備され、郵便物があれば此処に置かれた。レストランも半ば野外ではあったが、営業された。理髪店まで来ていた。トイレは大きなバスが改造されて大小用が足せるようになっていた。丁度下水溝の上に設置され使用に不便はなかった。電話交換手付きで電話線も配線されていて、取引先との連絡にも支障はなかった。一つ困ったのは、風呂がなくシャワーのみだったことで、暑い夏なので中国人には問題ないが、長年の習慣で夏でも風呂に入る我々日本人にはもの足らなかったが、思わぬきっかけで解決した。当時ホテルに長逗留は許されなかったが、物取りに行った機会に念のため風呂の蛇口をひねったらお湯が出た次第である。地震でも火は恐れない中国らしいなと思い毎日“ものとり”にホテルに行った。尚、日本大使館から慰問品(若干の飲食物)が届けられたが、大使館員と言えども避難場所には入れて貰えず、北西角の入り口まで取りに行った次第で、安全管理も万全であった。
2. 改革開放政策開始数年後も、深圳等経済特区以外は旧態依然であった。特に上海は10年近く目立った進展がなかったが、私の勤務していた会社では先々を見込んで1980年に上海に事務所を開くことにした。当時は貿易会社のみならず、主なユーザーは殆ど国営企業であった。
  電話の普及率が悪く、地方の取引先との連絡は主として電報に頼った。中国の電報は一万近い漢字を四桁の数字に置き換えて打電し、受信の場合は数字を漢字に置き換えて読むわけです。電碼本と言う便覧書は手元にあったが、大変な手数を要するものだった。又当時は上海では未だ現地人の雇用が出来なかった。然し窮すれば通ずで、電報局の担当の若い女性が漢字との置き換え作業を全部無償で代行してくれた。彼女等は数字を殆ど暗記していた。又ホテルの従業員は、まるで社員の如く伝達、書類の受け渡しなど積極的に手伝ってくれたものである。


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