殆どの中国人は身分に関係なく、本心では日本や日本製品に憬れています。今年は観光客等、来日中国人は昨年より五割も増加し200万人超過と報道されていますが、今後益々増加して本当の日本の姿や日本人への理解を深めてくれるでしょう。
覇権主義を追求したい一部の党幹部と絶対多数の其の他の中国人とは区別してお付き合いした方が良いと前回述べましたが、より一層理解して頂くため、更に追記します。戦前及び国交正常化する1972年以前の日本政府の対中態度や政策は、中国側から見たらひどいものだったことは誰でもご存知でしょう。その様な時代でも魯迅、孫文、周恩来等は来日し、或いは留学しました。又国交正常化前でも、中国に長期間駐在していた我々日本の若者(必ずしも態度も思想も良くなかったが)は中国の何処に行っても「外賓」と呼ばれ、大変歓迎され筆舌に尽くせない程の「もてなし」を受けました。特に忘れがたい事例を若干羅列して見ましょう。一部以前紹介しており重複しますが、ご容赦下さい。
1.1967年文革中ですが、中国に長期滞在しました。我々の身元引受人である中国国際貿易促進委員会の手配で、農村、学校、工場、住宅団地等沢山の見学をアレンジして頂いたが、歌舞音曲への招待も多かった。バスで劇場に到着すると、先ず貴賓室で応対され、開演直前に前から数列目の一番良い席に案内されました。他の中国人観衆は全員立ち上がり拍手で迎えてくれました。
2.地方に出張すると、列車の場合は到着したプラットフォームの乗車した客車の前まで
 出迎えの人が車で来ていました。乗る場合は先ず貴賓室に通され駅長(小さな町の場合は町長や党の書記)が挨拶に来られ、接待を受け列車の発車直前に指定の客車に案内されました。
3.農村(人民公社)見学の時は、我々日本の若者達が30人余も押しかけた為、茶碗が足らず何軒もの農家からかき集めたらしく、不揃いの茶碗で湯冷まし水(涼開水と称す)をすすめてくれました。農作業を手伝おうではないかとある日本の若者が提案、当時の風潮に合っていたので、即全員賛成、然し野菜採取等仕事が粗雑であったので、数十分で「もう結構です」と言われてしまった。文革中ではあったが、貧しい農民たちの我々日本の“不良青年達”への応対は本当に心のこもったものでした。
4.初訪中は1965年9月で、北京上海日本工業展覧会参加が主要目的で、10月北京、12月上海で夫々3週間もの長丁場だった。最終的な展示品処理が完了し北京に列車で戻れたのは1月23日であったが、その間いろんなもてなしを受けた。例えば上海で12月24日はクリスマスイブの晩餐会、31日夜には夜食として年越しそば、元旦には特別にお雑煮がホテルより出された。北京への移動では大量のカタログや展示見本等の輸送を一人で9社(展示代理メーカー)分扱ったが、上海の関係者が献身的に協力してくれた。
5.北京の東方150㎞に位置する唐山で1976-7-28早朝、大地震が発生し中国政府発表でも30万人近い死者が発生し、北京でも前門から西方に延びる古い民家が殆ど倒壊して(其の後高層アパート群を建設)、300人余が死亡したと後日伝えられた。然し我々の住む商人宿とも呼ばれた新僑飯店の住民は当日昼迄には、故宮の東南部の労働人民文化宮と言う公園に全て避難させられた。8人用軍用テントが沢山張られ、ホテルのサービス機能も殆ど同時に引っ越され、生活や仕事に不便はなく、中国当局の迅速、周到な手配に感謝した次第。当時の状況を街中を含め、次回更に紹介しましょう。

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