古代インドでは、人は、色受想行識からなると考えました。 「色」とは、肉体。 「受」とは、感覚。 「想」とは、表象。感覚器官が捉えた感覚を頭の中で像にすること。 「行」とは、無意識。 「識」とは、意識。 のことであると思います。 仏教では、これら色受想行識、すべて無常(変化し、滅するもの)であり、「わがものでなく、わたし自身でなく、わが本体でない」と言っています。 では、何が?わたし自身であり、わが本体なのでしょうか? お経には、明確な答えはありません。 「色受想行識から離れよ。離れれば解脱する。解脱すれば、解脱したという智が生ずる」 解脱すれば、すべて解ると言っているだけです。 おそらく、わが本体は、色想行識を動かすエネルギー自体なのでしょう。 そして、このエネルギー自体を感じ、このエネルギーの感覚で、私たちの意識が満たされた状態が「解脱」であり、「悟り」なのではないでしょうか!?