本日もコンピューターに向かって仕事をしながら日経新聞Web刊をチェックしていたら、気になる記事がいくつかあったので筆をとった(キーを叩いた!)。

まず、午前中のトップ記事に「10億人を動かすクラウドの巨人たち」と題する編集委員中山淳史氏による解説が掲載されていた。「クラウドキャピタリスト」と呼ばれ、「クラウド・コンピューティングを駆使し、人の生活スタイルや産業構造を変えながら巨大な利益を上げていく」グーグル、アップル、アマゾン・ドットコム、フェイスブックの4強の勢いに比べ、取り残されていく日本企業を描いている。

今月の6日に発表が行われたアップルのiCloudのインパクトは非常に大きく、私自身もアップルのサイトでOS X LionやiOS 5といったOSの進化を見て、新時代の到来を直観した。グーグル等が切り開いてきたクラウド・コンピューティングへの流れがアップルによって更に身近に、決定的になったと言って良いのではないかと思う。

次に気になった記事は、昨夜遅くの掲載になっているが、「放置できない東京市場の超衰退」と題する記事で、株式時価総額に見る日本企業の衰退とその反映として株式アナリストさえもいなくなっている東京市場の現実を解説している。大きな記事でなないが、タイトルに「超」の字がついているのにハッとした。

同じようなことは10年以上前から言われていたが、それでも同僚の中国系カナダ人コンサルタントが「ファイナンスがかなり中国にシフトしたとは言っても、まだまだ重要な情報や人は東京に集まってくるんだ」と言っていたのを思い出す。それから10年、、、変化は決定的になろうとしている。

私はこれら二つの記事が、日本企業の衰退に関連しているということだけではなく、グローバルに進行する大きな時代の切り替わりの一側面を示していると考えている。それは、「成熟した工業化社会から本格的な情報化社会への移行」であり、それに必然的に伴うグローバル化の進展である。

少し詳しく述べると、私は1993年には米国の経営コンサルティング会社のR&D拠点にいて国際チームの一員としてBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)手法の開発を行っていた。その年の前半は、研究開発と同時に日本への初めてのBPRの導入を米国から行っていたが、夏の終わりには帰国して秋から頻繁にBPRの講演を行っていた。日本において1993年は、言わばBPRの元年だったのである。

それらの講演やクライアントへのプリゼンテーションの際に、私はBPRの手法的な側面よりも、むしろBPRが持っている本質的な意味合い、BPRが反映している深層における大きな変化について強調した。残念ながら理解されることは、決して多くはなかったと思うが、、、。

BPRの持つ最も大きな意味合いは、上に述べたように、それが成熟した工業化社会から本格的な情報化社会への移行期の真っただ中に入っていく印だということだ。私は、この移行期全体を1980年から2010年までの約30年間とし、それを更に10年間ずつの三期、即ち移行開始期、本格的移行期、移行完成期に分け、「BPRはこの本格的移行期である1990年代の開始を告げる一つの現象です」と強調していた。(その詳しい理由は、機会を見て改めて述べたい。)

私は、BPRの発想の原点は日本的経営なので日本企業には必ずしも目新しくは映らない、手法として理解すれば単なるITの応用になってしまう、そうではなく働き方や組織の在り方、雇用関係を含み、広く社会経済全体に大きな変化を及ぼすきっかけとみなすべきだと考え、そのように説明していた。

気がついてみれば、それから約20年が過ぎ、「移行完成期」が終了したと言ってもよい2011年となっている。この30年に亘る移行期における劇的なかつ本質的な変化に、逆説的だが、多くの人々は慣れっこになってしまい、かえって気がついていないのではないかとも思う。

私としては、この1993年にBPRの紹介を通して私なりの警告を発したつもりだったが、残念ながら1990年代と2000年代は本当に「日本の失われた20年」となってしまった。

今、日本はリーマンショック以降の不景気に加え、東日本大震災・福島原発事故と言う未曾有の危機にある。大企業も、中小企業も、個人事業者も、国も、自治体も、国民も「災い転じて福となす」べく、覚悟して新たな時代の創生に取り組むしかない。

明治維新や第2次世界大戦敗戦以降、今程日本の首相、経営者や首長などのリーダーにビジョンとクリエイティビティー、発想の転換が欠かせない時代はないのではないだろうか。

ヴィブランド・コンサルティング
代表取締役 澤田康伸