天安門事件に関しては、2013年1月の第39回、及び40回にも報告しており若干重複するが興味のある方はご参照下さい。尚、忘れがたい一コマがあるので紹介しましょう。6月3日夜の西方から進軍して来た解放軍の長蛇の隊列も、私が滞在していた民族飯店から東方3km先にある天安門へと進んで行き、なくなった。やがて狙撃されるのを避けるため路地裏などに隠れていた学生たちが次々と長安街通りに戻って来た。5-6千人にはなったかと思われた頃、自然発生的にインターナショナル(中国では国際歌と言っていた)を斉唱し始めた。この歌は日本でも左翼的な学生達がデモ等示威行動をする時によく歌われたものである。然しその歌声は物悲しい雰囲気が漂っており、学生達の虚脱感、敗北感を物語っていたのでは、と感じた次第である。

  西安について:唐突ではあるが西安について紹介したい。前回1992年10月天皇皇后両陛下が訪中なされ、当時は中国の対日友好度が高かったことを紹介しました。その折両陛下は西安もご訪問されたが、その一端をそれから5年後の1997年に私は西安で体感することとなりました。と言うのは仕事上の仲間と西安に旅行したのですが、現地ガイドに西安の市街地を取り巻く城壁の西南部に案内され、城壁を上るよう促されました。すると椅子が二脚外に向かって置いてあるのを目にしたが、「これらの椅子は両陛下がお座りになったものです」との解説でした。徒歩でお上りになられた両陛下はお疲れだろうと配慮されたものと思われます。それにしても5年後も同じ場所に椅子を置いておくと言うことは、当時まだまだ中国の対日友好度、親日度が相当高かったことを物語っていると思われますが如何でしょうか!?

 実は私はその前にも、何度も西安を訪問しています。それは西安が仕事上のユーザー業種である電子産業が比較的発達した地区だったからです。西安の東方40kmにあり楊貴妃も入浴したという華清池は臨潼と言う小さな町にあるが、その東側には秦の始皇帝陵や兵馬陵があります。これ等の状況は西安に行ったことのある人なら、誰でも知っていると思われるが、私の初訪問だった1978年ごろは、観光地化された後より良かったとの思いがあります。即ち:
兵馬俑発見から4年しか経っておらず、風雨を防ぐ建物はなく露天であったが、土産物を売る商店などなくゆっくり見物出来たこと、華清池では入り口に近いところ左右に温泉風呂が沢山あり、入浴できたことです。但し風呂水の温度は35-6度しかなく、ややぬるかったと記憶しますが。現在はどうでしょうか?

次回は日本の対中ODA援助の現地拠点での管理麺の仕事をしていた時、1996年1月初めから2000年4月末まで(途中一時帰国あり)の間に感じた印象、特に中国側が日本からの援助の事実を広報したがらない背景等について紹介しましょう。

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