この事件は中国現代史の中では特筆される大きな事件であったが、私自身の体験に
限って関連事項を若干報告しましょう。当時、政府の政策諮問機関(シンクタンク)である社会科学院や警察学校の中にも、学生達の示威行動に同調者がいたと言われ、大学の中にも同情する教授達が相当いたと言われる。
1、 困った事態が一つあった。私が所長をしていた北京事務所には現地スタッフが13名在籍していたが、その中数名は座り込みに参加したいので、一時的職場離脱を認めてくれと、5月中頃より執拗に要求してきた。当然拒否したが、彼らは「これは中国の内政問題故、所長といえども外国人故干渉できないはず」と主張した。私は「バカなことを言うな!君等の安全を真っ先に考えるのは仕事以前の所長の責務である」と拒否した上で、「座り込みは明らかに違法行為である。若し東京の皇居前広場で類似の事態が発生すれば直ちに排除される。第一今回大多数の工場労働者や農民は同調した動きをしていない。今後何が発生するか分からないので、せいぜい車で通りすがりに見る程度にしておけ」として、拒否姿勢を貫いた。
2、 事件直後日本大使館より、北京の東北部にあり「比較的安全な崑崙飯店に一時的に避難されたい」との勧告があり、続いて「一時帰国し安全が確認されてから帰任する様に」との勧告が出された。止む無くその通り行動し翌日社長に報告に行くと「君は前線の司令官である。将兵を残して戦線を離脱するとは何事か」との叱責を受けた。政府の勧告は実質的に命令であり従う他なかった旨釈明し、直ぐ北京に戻ると決意表明した。「1950年から交流している我々は、政府関係者より遥かに中国事情に精通しており、一緒に働いている部下は同志でもある。早急に北京に戻るが良い。一旦帰国して政府の面子も立てたことになる」との指示でそのようにした。
3、 この事件により日本を含む西側諸国は、対中制裁を実行した。即ち中国向けの世銀借款を初め各国のODA提供を凍結し、政府間交流も制限した。然し日本政府は翌90年11月にはODA凍結を、他の欧米諸国に先駆けて解除した。当時バブルの最高潮時期であり、世界で最も裕福な国と言われた時期であった為、中国側の対日評価や好感度は最高になった。若し、当時世論調査をすれば、世界中で一番好きな国は日本となったであろう。最近の日中関係からは想像できない情況であった。
4、91年のある日突然国家安全部より連絡があり会いたいとのことだった。何事かと思いながらも指定されたホテルに出向くと、1965年からの知人が宴席を用意していた。彼等は配転され現職となった由で、目下天安門事件を深刻に総括しているが、今後の採るべき政策について助言を願いたいとのことだった。2点のみ申し上げた。①段階的に普通選挙を実施すること、及び②規律委員会は党の外、即ち人代機関としてより強い権限のあるものにして設置すべきである、の2点である。
① に就いては既に検討済みで、郷鎮村落や都市部では区段階から実施することになろうとのことだったが、その後の状況を見ると、実施はしているが選挙前に候補者の絞り込みがあり、意図した通りにはなっていないと見られる。
② 就いては党内の組織では上層部にはメスが入れ難いので、人代機関として非党員を主体にすべきと進言したが、その後確たる動きは見られない。

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柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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