1966-1976年と10年に及ぶ文革時代であったが、紅衛兵の過激な活動は最初の2-3年のみで、其の後彼等は農民に学べと指示され中国西部や東北の貧困地帯に派遣された。
又当時ソ連の核攻撃の恐れがあるとして、都市部中心に避難用の深い地下壕が沢山掘られた。20年も後に北京の天壇公園近くの地下壕跡に入る機会があったが、商店や診療所として活用されていた。当時の商社の駐在員は、仕事1/3、残る2/3の時間は学習会、参観活動、“歌舞音曲”鑑賞だった。
☆学習会:駐在員の常宿だった新僑飯店(当時は空調もなし)の各階を東西に分けて、
グループを作り語録を読んだり自由な討論、情報交換をし、“不遜”にも替え歌を作る要領で語録の書き換え版を互いに披露しあったりした。更に中国の紅衛兵との座談会や交流会への参加(歌合戦等結構楽しんだ)、更に前記の如く貿易公司担当者とは商談前に、語録の読み合せもした。不思議と文革への批判的意見は、左翼的商社マンより多く出され、彼等の中から一部の人達はスパイ容疑をかけられた。真偽の程は不明だが、
文革前から中国人と深い交流があり、“知り過ぎた人達”であったのは、間違いない。我々“右翼”は問題外と看做された様だった。
☆ 沢山の工場や学校を見学した他、「我々も農民に学ぼう」と中国側に申し入れしたら、喜んで手配してくれた。北京南郊外の黄土崗人民公社に行き、農作業を手伝ったが、ねぎ抜き作業もあり、切れてしまうのも沢山発生、30分もしない内に、「もう結構です」と言われてしまった。昼食をご馳走になってしまい、今思い返しても赤面の至りであった。9年後大地震の発生した唐山市の北方50kmに位置する、第二の大塞と言われた、沙石峪と言う人民公社にも行った。列車で行ったが、当時の唐山駅は童話に出てくる様なメルヘンな感じがした。一泊した招待所も地震の時には破壊されたと後日知った。沙石峪は文字通り石だらけの丘陵地帯にあったが、桃やスモモ等沢山の果物が栽培され、道路などもよく整備されていた。自力更生の模範との事だったが、解放軍の工兵等の援助協力がかなりあったと、後日聞かされた。
☆ 文革と言うと、10年間の大動乱と言われるが、そうでもなかった。67年5月には天津市で日本科学機器展覧会があり、それに参加する為訪中し、6月下旬以降北京駐在となったが、展覧会でも昼食時は2時間程閉館し入場止めにした上で、会場内にあったプールで、貿易公司の若い女性担当者等と毎日楽しく泳いだりして、お陰で展示品商談も順調に進んだ位である。勿論、我々外国人を一律「外賓」と呼んでいたくらい故、特別待遇だったことも事実である。
この天津では、5年後の1972年1月に単独で小さな展示会を開催し、最後にお礼の宴会を開催したが、私の考えで先方の参加希望者を大幅に入れ替えてしまうと言う、ちょっとした事件を起したが、次号でその概要を紹介しましょう。文革の一面を理解する一助にはなるはずである。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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