2018年 7月の記事一覧

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18年07月26日 10時30分58秒
Posted by: yanagizawa

あまり報道されなかったが、最近注目すべきニュースが北朝鮮にあった。それは金正恩委員長が地方視察の際に激怒した様子が、北朝鮮国内テレビでも報道されたと言うことです。中朝国境近くの工場視察の際に、科学技術的管理がなってないとか(7月2日)、ダム工事現場視察の際には。工事の遅れに就いてです(7月17日)。金日成時代から国のトップが、あたかも万能の神様の如く各種の現場指導をすることはあったが、今回の出来事は大失敗だった中国の大躍進政策や文革時代の産業政策を彷彿させるものがあるので、是非取り上げたいが、それは次回として前回予告した中国の歴史地図に見る朝鮮半島の状況後半を先ず紹介しましょう。

  隋の煬帝(在位604-618)は百万とも言われる大軍を以て高句麗をAD614 迄再三攻めたが、成功せず、隋朝崩壊の大きな原因にもなった。この当時の高句麗は中国長春の北方、ハルピンの西方まで支配地を有していたが、何故か中国の歴史地図では国号は既に高麗となっている。次の唐時代には、半島北方は高麗、東南部は新羅、西南部は熊津都督府(660-665)としている。百済の存在を意図的に無視しているのが不可解。唐時代中期には現在の平壤以南を新羅としているが、解説蘭にも時期を明記せず、唐の軍事力を利用して百済と倭(日本)軍に勝利した後、新羅は唐軍を追い出した(AD676、爾後935まで続く)のを認めたくないのかも知れない。

  唐時代後期には新羅の北方に渤海国を明記するも、国境線なし。尚隋朝時代以降は沖縄を琉球と明記、台湾は夷州から流求と表記を変更した。

  五代十国時代(AD907-960)には半島は高麗(成立はAD935)となっているが、その支配北限は平壤の北郊外迄と記し、首都は開城(1972年に参観したが、保存状況悪し)明時代(1368-1644)には中国との国境線をほぼ現在と一致するように表記している。AD1393には李成桂が朝鮮王朝を成立させ、首都を現在のソウル(漢城と表記)に置き1910年まで518年続いたが、その後日本に併合されたことは地図上にもなく、中華人民共和国成立後も半島全体を朝鮮との表記している。

  尚日本に対しては、4世紀前半までは九州地区に倭と記し、4世紀後半には倭と言う表記の位置を岡山県辺りに変更し、西日本を倭国が支配していると間接的に示している。隋朝の6世紀後期には、倭国との二文字を関東地方から近畿地方にまたがって記し、日本全体が倭国により支配されていることを示し、7世紀より日本との国号で東北以西を支配していることを示しているが、それから300年の10世紀までは北海道に毛人と記して、統一日本の外にあったと間接表現している。台湾に就いてはずっと流求と記してきたが、13世紀の

元時代には琉球の文字に変更し、沖縄など日本の西南諸島は台湾の一部の如く琉球群島と記し、17世紀の清時代以降は、日本の尖閣諸島を魚釣島(福建)、赤尾嶼(福建)と記してあるが清朝後期になると、何故か括弧内の表記はなくなり、現在に至っている。尚「嶼」と言う文字は小さい島との意味である。最後の中華民国時代の解説蘭には「1945年9月  日本により占領され、植民地にされ“満州国”と偽称されていた東北三省は遼寧省等9省及びハルピン直轄市となった云々」と記されている。

 

以上の様に、朝鮮半島のみならず中国周辺の状況に就いては、国際的にも認定されている事実よりも、中国の思惑や願望が反映されて記されていることが分かります。

 

18年07月07日 16時05分07秒
Posted by: yanagizawa

短期間に北朝鮮の金正恩委員長が三度も中国の習近平主席(以下敬称略)に会いに行く等、昨年までは考えられない状況が生じています。中国と親密だった兄の金正男を暗殺した事など考慮すると考えられない状況だが、日本の常識では今後を予測するのも極めて困難と言えそうです。
 手元に中国社会科学院編集、中国地図出版社発行の「中国歴史地図集」と言う貴重な資料があるので、その中で朝鮮半島がどう記載されているか参考までに紹介しましょう。
1、 この資料は近代に於ける満州国(日本の画策により成立したものではあるが)を、存在しなかったことにしている以外比較的公正に編集されていると思われます。尚、中華民国時代の地図の解説蘭の下辺に小さい文字で<清末の1897-1903年ツァーロシアはわが国の東北の鉄道権を略奪し、中東鉄道を修築した。ハルピンを中心として東は绥芬河より西は満洲里まで、南は旅順、大連に至るものであった。日露戦争後長春以南は日本に占領され、南満鉄と改称された>とあるのみである。現在中国では「満州国」を「偽満」と称しています。
2、 中国大陸では、2200年前の秦の始皇帝による国家統一以前は、国境の概念はなかった様(天下との概念)で国境線は引かれていません。秦国の東端は北朝鮮の平壤西北郊外から中国瀋陽の東北郊外に延びる長城(春秋時代の地図にはなく、戦国時代には記載されているので紀元前3-4世紀に築造されたものと思われる)以西となっており、初めてその東側に高句麗との記載があるが、高句麗の北部の国境線はなく未確定としている。韓国人は自国の歴史を5,000年の歴史と言うが、その大部分は神話伝説時代である。
3、 前漢時代になると高句麗の南側現在のソウル付近まで楽浪郡となっており、漢王朝に支配されていたとしている。半島の南側は西より馬韓、弁韓、辰韓の三韓に分かれている。北方には高句麗の支配地があったことを示している。尚この時代には日本の九州を倭国として記載している。前回記した如くAD3-4世紀になると高句麗の支配地が北方の現在の中国吉林省に迄拡大したことを示しているが、楽浪郡の他に帯方郡が現在の平譲とソウルの中間に設立されたともなっている。半島南半分は変わらず。5世紀初頭には半島の南側の三韓は百済、任那(加羅とも併記)、新羅となっている。4世紀末には現在の吉林省西南部の集安市郊外にある好太王碑に記載ある如く、当時の倭国の軍隊が高句麗の中心地であるこの地まで進軍したことを示している。
4、 高句麗は新羅と唐の連合軍によりAD668には滅亡したが、全盛期の5-7世紀には最大版図を保ち、現在の吉林省18万㎢の半分、遼寧省15万㎢の六割は高句麗に属していた。実に北朝鮮の領土の12万㎢以上で、朝鮮半島全体の3/4の土地が朝鮮族により支配されていたことになる。従い現在でも朝鮮族は登録されている人口だけでも吉林省に120万人、遼寧省や黒竜江省には70万人、計190万人が東北三省に居住している。北朝鮮との国境の大部分は吉林省と接しており、その国境線の大部分は、東が豆満江(中国名は図們江)及び西が鴨緑江であり、越境するには好都合な地理的条件となっている。

中国歴代王朝の冊封(さくほう)体制(徳川幕府と日本各地の藩との関係の如し)に、殆どの半島の王朝が組み込まれていたこと及び上述の如く入り組んだ地理的環境の中で歴史的時間を経過してきたことは、日本にはなく、中朝の関係は多くの日本人にとっては分かり難くなっていると言えよう。次回更に補足しましょう。


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