2012年 6月の記事一覧

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12年06月28日 14時20分52秒
Posted by: yanagizawa
☆ 文革時代中期の1972年1月に、商品PRの一環として輸出代理をしている、あるメーカーの機器類の小型展示会を開催した。最後に天津側関係者へのお礼の宴会をしたいので、出席可能者名簿を出して欲しい旨、受入先の中国国際貿易促進委員会天津分会に申し入れたところ、間もなく名簿が届けられた。ほとんどは天津市革命委員会の代表委員の方々で、この展示会に多少なりとも関係ある方々はほんの数名で、9割以上は見知らぬ人達だった。招待したい人達があまりにも少なく、突き返すことにした。
その時、直接・間接世話になった方々は全員招待するが、それ以外は招待したくないとの条件を付けた。当時は、「実際に体を動かす労働者や農民こそ主人公であり、幹部や知識分子は彼らに学べ」と叫ばれていた時代で、我々の意向はすんなり受け入れられた。
 結果として、関係幹部の他、会場に出張サービスしてくれた税関の担当官、交代で寝ずの番をしてくれた解放軍の若い兵隊さん、お茶入れや掃き掃除のおばさん、通訳や展示品説明員、運輸や保管担当者、貿易公司の担当者、設営装飾関係者等々、合計81名を招待することになった。当時外国人の招待する宴会に出席できる等と言うことは、一般には夢にも思えないことであったので、参席者は一様に感謝感激の体であった。各テーブルを回り、お礼の言葉を述べて乾杯しようとすると、彼等は「テーブル毎ではだめ!一人ずつ乾杯したい!」と主張、止む無く応じたが、結果として茅台酒を81杯余飲むことになってしまった。計算すると一斤半(750ml)以上飲んだことになる由。当時の革命委員会は彼等が散々批判していた“実権派”同様になっていたとの印象が強い。
☆ 文革時代の1972年9月には、日中間の国交正常化が成し遂げられたが、当時中国政府関係者より内々聞かされたところでは、賠償請求権の放棄は巷間伝えられている理由ではなく、毛周両首脳の深い戦略だった由。又、この時代まで、我々在留日本人は、何処に行っても一律「外賓」と呼ばれ、準国賓待遇(注)を受けていたので、個人ベースでは国交正常化後の待遇は、2-3段階下がってしまった。
 (注)飛行機を利用すると出迎え者はタラップ下まで、車で出迎えに来る。列車を
利用すればプラットフォーム迄車が入れ、到着すると貴賓室に通され駅長より挨拶を受けた。博物館等の見学では人払いがされており、歌舞音曲の鑑賞では貴賓室で接待され、開演直前に前から5-6列目の中央部に席が開けて準備されており、多くの観衆により拍手喝采で出迎えられ、着席した等々。
☆ 中国紅衛兵との議論で、伝統的京劇や佳人美人の登場する演目も復活すべしと主張したが、彼等は「白毛女」、「紅色娘子軍」、「紅灯記」等々革命的と称する演目が良い、
王侯貴族主体の演目は、腐敗堕落だと言う様なことを主張していたが、今にして思えばそう言わざるを得なかったと、バカな批判をしたものだと思い返している。それにしても毎週の如く、首都劇場、民族文化宮礼堂、人民大会堂大ホール、中山堂等々へ招待され、「白毛女」等、同じものを10回以上も見せられ、心理的には疲れたものであった。
 以上、ご質問があれば遠慮なくメールして下さい。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
Mail add. Knhr-yana-@jcom.home.ne.jp


12年06月24日 11時34分18秒
Posted by: yanagizawa
 1966-1976年と10年に及ぶ文革時代であったが、紅衛兵の過激な活動は最初の2-3年のみで、其の後彼等は農民に学べと指示され中国西部や東北の貧困地帯に派遣された。
又当時ソ連の核攻撃の恐れがあるとして、都市部中心に避難用の深い地下壕が沢山掘られた。20年も後に北京の天壇公園近くの地下壕跡に入る機会があったが、商店や診療所として活用されていた。当時の商社の駐在員は、仕事1/3、残る2/3の時間は学習会、参観活動、“歌舞音曲”鑑賞だった。
☆学習会:駐在員の常宿だった新僑飯店(当時は空調もなし)の各階を東西に分けて、
グループを作り語録を読んだり自由な討論、情報交換をし、“不遜”にも替え歌を作る要領で語録の書き換え版を互いに披露しあったりした。更に中国の紅衛兵との座談会や交流会への参加(歌合戦等結構楽しんだ)、更に前記の如く貿易公司担当者とは商談前に、語録の読み合せもした。不思議と文革への批判的意見は、左翼的商社マンより多く出され、彼等の中から一部の人達はスパイ容疑をかけられた。真偽の程は不明だが、
文革前から中国人と深い交流があり、“知り過ぎた人達”であったのは、間違いない。我々“右翼”は問題外と看做された様だった。
☆ 沢山の工場や学校を見学した他、「我々も農民に学ぼう」と中国側に申し入れしたら、喜んで手配してくれた。北京南郊外の黄土崗人民公社に行き、農作業を手伝ったが、ねぎ抜き作業もあり、切れてしまうのも沢山発生、30分もしない内に、「もう結構です」と言われてしまった。昼食をご馳走になってしまい、今思い返しても赤面の至りであった。9年後大地震の発生した唐山市の北方50kmに位置する、第二の大塞と言われた、沙石峪と言う人民公社にも行った。列車で行ったが、当時の唐山駅は童話に出てくる様なメルヘンな感じがした。一泊した招待所も地震の時には破壊されたと後日知った。沙石峪は文字通り石だらけの丘陵地帯にあったが、桃やスモモ等沢山の果物が栽培され、道路などもよく整備されていた。自力更生の模範との事だったが、解放軍の工兵等の援助協力がかなりあったと、後日聞かされた。
☆ 文革と言うと、10年間の大動乱と言われるが、そうでもなかった。67年5月には天津市で日本科学機器展覧会があり、それに参加する為訪中し、6月下旬以降北京駐在となったが、展覧会でも昼食時は2時間程閉館し入場止めにした上で、会場内にあったプールで、貿易公司の若い女性担当者等と毎日楽しく泳いだりして、お陰で展示品商談も順調に進んだ位である。勿論、我々外国人を一律「外賓」と呼んでいたくらい故、特別待遇だったことも事実である。
この天津では、5年後の1972年1月に単独で小さな展示会を開催し、最後にお礼の宴会を開催したが、私の考えで先方の参加希望者を大幅に入れ替えてしまうと言う、ちょっとした事件を起したが、次号でその概要を紹介しましょう。文革の一面を理解する一助にはなるはずである。
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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12年06月18日 13時56分36秒
Posted by: yanagizawa
中国の年配者と文革中の情況を話し合うと、みんな紅衛兵の犠牲者だったと言う。これはウソです。45年前の1967年、天津・北京駐在中の私は、中国側より日本人紅衛兵と言われたが、当時中国の若者は殆ど紅衛兵の腕章を付けていました。「犠牲者と言うなら加害者でもあったはず」と当時の体験と見聞を話して、問い返すとみんな黙ってしまいます。確かに一部の若者は、傍若無人の振る舞いをしましたが、90%以上の紅衛兵は、毛沢東語録を読み、討論会や諸活動に参加していて、あまり勉強もせず生産活動もおろそかにしたのは確かです。「犠牲者だった」各種回顧録が沢山出版されていて、実情が忘却の彼方に押しやられているので、3回に分けて体験談を紹介しましょう。
☆ 我々商社の駐在員は学習会や参観活動にしばしば勧誘されていたのは事実ですが、一部日本のマスコミが商社の若者達が軍事教練を受けていると、報道をしましたが、事実ではありません。天津近くの楊村部隊(解放軍の駐屯所)や広州空港奥の白雲部隊
を見学したのを、誤解したものと見られます。見学のポイントは、駐屯所では農業を営み殆ど自給自足の状態だったのを紹介してくれたものでした。解放軍の一人当たり手当は僅か月5元(当時大卒の初任給は45元)と聞き驚きました。
☆ 面白い現象として、左翼的商社マンが多かった時代ですが、業界仲間中では右翼と呼ばれていた私等は、中国側より何の嫌疑も受けなかったが、スパイ容疑をかけられた日本人は主として、思想的に中国側に近かった人々でした。商談の際には先ず語録を読み
時には革命歌を唄いましたが、国営の貿易公司の担当の方々は我々外国人に同調を求めるのをためらう傾向もありました。そこで、むしろ我々の方から率先して、「xx頁を
開いて」(日本語版もあった)と誘いかけ、革命歌(殆どは有名な民謡の歌詞の入れ替え)を唄ったものでした。メーカーの長期出張の若者達と共に、こんな経験は一生に一度の貴重な体験として、大いに楽しんでしまった訳です(本当に犠牲になった人々には申し訳なかったが、我々周辺や参観先では武闘騒ぎはなかった)。
☆ 仕事には確かに多大な影響があり、より過激な権力闘争や武闘騒ぎの情報を捜し求めている新聞社の特派記者達には、「貴方達が羨ましいですね!」と言った位でした。我々日本人”紅衛兵“は、天安門前広場での毛沢東の謁見大集会(100万人が集合)では観閲台の天安門中央寄りに招待され、毛沢東や林彪の姿も鮮明に写真に撮ることが出来、日本の新聞記者(彼等は観閲台の端の方だった)に頼まれて、配布した程でした。
☆ 何処も彼処も「大字報」だらけだったのは事実です。紙や墨の生産量の多さと、達筆家が多いのには心中驚愕した次第。紅衛兵との座談会では率直に話し合い、日中双方の若者の生活状況を紹介しあった時、日本の生活レベルが当時の中国とは比較できないほど高いのを知ると、中国の紅衛兵は「テレビや自動車を買おうとしないで、アジア・アフリカ等で解放闘争をしている人民を援助し、国際的連帯を示すべきだ」と言ったのに対し、日本の若い出張中の技術者は、「君達は不労所得は搾取であり許さないというが、そんなことすれば、彼等の不労所得になり搾取と同じだ。自分で働き稼ぐべきだ」と反論したが、そこで中国側の紅衛兵は話題を変えてしまった。-続く-
柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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