(株)トランスコウプ総研 | |
代表取締役 | 上田晃輔 |
博士(商学) |
警察は,大衆にとっては身近なような縁遠いような,微妙な存在である。テレビがしばしば流す24時間密着と称する警察番組は,大衆の警察に対する興味の反映である。「警察沙汰」という言葉があるが,やや深刻なトラブルを意味し,それを積極的に望むようなものではない。大衆は警察を,普段は遠くに置き,必要な時だけ利用したいと思っているだろう。積極的に警察に関わりたいと思っている者は,まず居ないのではないか。
警察は,経済学で言う公共財である。教科書の記述によると,公共財とは非排除性と非競合性を同時に備えるものである。つまり,公共財とは,誰でも無料で使い放題使っても減らないもので,その例として,公園や道路などと並んで挙げられるのが,警察である。ちなみに,電車・バス・博物館・映画館などは,誰でも自由に使えるが,金を払わなければならないし,定員を超えたら使えない人が出てくる,準公共財である。そして,明確な所有者があって,使用する権利を独占しているものは,私的財である。
警察の重要な任務に,交通取締活動がある。道路は公共財として提供されているので,それを適切に機能させるための各種の活動も,公共財として提供される。それら活動には舗装の修理などと並んで交通取締があり,それを実施するのが警察である。交通取締の目的は,道路交通の秩序を維持することである。道路交通に秩序がなければ,道路交通は危険なものとなり,道路はその機能を果たさなくなる。交通取締活動は,大衆にとっては,警察の活動の中では比較的身近に感じられるものである。道路という公共財を利用する者に等しく関わることであるし,実際に目にすることが多い。一方で,巷にはこれを不快に思う者も多いようである。「警察は違反防止をせず,物陰に隠れていて違反を捕まえる」;「検挙数のノルマがあって警官の成績評価に影響するのだろう」;「オレが払った罰金が,警官のボーナスになっている」,こんな戯れ言が半ば本気で語られている。
警察の諸活動は,マーケティング活動である。マーケティングをモノを売り込むことであると認識し,マーケティングという語に悪い印象を持つ人があるが,誤解である。マーケティングとは,人間社会における生産活動を広く捉える概念である。人間の生活は,様々な製品やサービスによって支えられているが,それらが最終的な消費者に渡る段階だけでなく,天然資源採取・製造・流通・販売などすべての段階が価値を生み出す活動であり,マーケティングの一環と理解できる。そして,それらの活動には,つねに複数の人間が関わっている。販売においては,売り手と買い手が居る;製造であれば,直接携わる職人の他に原材料の仕入先がある。このようなことから,マーケティングとは,「人間同士の関係性の下で,価値を創出する活動」と定義づけることができる。公共サービスである警察の活動も,社会との関係の中で価値を生み出しているものであり,当然マーケティングに含めることになる。
すべてのマーケティング活動は,価値を創出する。たとえば,サラリーマンが仕事帰りに酒を呑むこともマーケティング活動であり,そこでは価値が創出されている。酒場に寄って酒を呑むという行為を経済学的に交換の概念で説明すると,「貨幣と酒を交換する」という実にそっけないものになってしまう。だがそこに,図1のように価値創出の概念をあてはめると,酒を呑むことの本質を理解しやすい。真ん中に酒を呑むという行為がある。そして,取引の主体として,酒場のオヤジと呑み助がいる。ここでは,酒場のオヤジと呑み助の間に,資源を出し合っての協力がある。酒場のオヤジは,酒・肴・場所,そして,もてなしという資源を投入する。呑み助が出す資源は,お勘定である。その2者の協力が酒を呑むという行為である。二者の協力は,呑み助の疲れた肉体と精神に働き掛け,価値を産み出す。産み出された価値は,疲労と空腹からの回復・精神的癒し・明日への活力,そして利潤で,それらを呑み助と酒場のオヤジで分かち合う。ここで,酒を呑むという行為は,自由な市場において提供されるものであるから,酒場のオヤジと呑み助は,自分が負担する資源とそこから受ける価値の分配を勘案して,自己にとってなるべく有利な相手を選ぶのである。取引を価値の交換でなく,価値の創出と考えるこの分析枠組みは,モノの取引だけでなく無形のサービス取引や公共サービスなどにも応用でき,それらの構造を無理なく説明できる。これは,商学の世界では21世紀になってから出てきた概念枠組みで,サービス・ドミナント・ロジックと言う。
図1 酒を呑むことの価値創出
そして,交通取締活動にもマーケティング理論が適用できる。交通取締活動がマーケティングに当てはまらないとすれば,交通取締活動は目的も価値も意味もない活動であるということになってしまう。交換の理論で交通取締を説明するのは難しいが,図1の理論を応用すれば,交通取締の意味がスムーズに説明できる。
酒呑みの価値創出の構造図を警察による交通取締活動に適用したのが,図2である。警察の交通取締活動が価値を創出していることは,日常的に道路を使っている市民はもとより,たまたま違反で検挙された者も,さらには,取締を行っている警官も理解していないかも知れない。交通取締活動が創出している価値とは,最初にも述べたとおり,道路交通の秩序を維持し,人や物財の移動という道路の機能を正常に発揮させることである。理解しづらい場合は,交通取締が行われない無法状態を想像して,交通取締が行われている現状と比較してみると良いかも知れない。
図2 交通取締の価値創出
違反者は,価値創出の共同作業者である。普通の理解では,警官は取り締る主体であり,取り締られる客体は違反者である。しかし,こうした構造では,価値が生まれることが理解できない。交通取締の図において警察は,酒呑みの図における呑み屋のオヤジに相応する。そして,違反者が相応するのは,呑み助なのである。つまり,警察と違反者が共同して,違反者の悪い交通マナーに働きかけて,交通安全という価値を創り出す。ここで,警察と違反者はそれぞれ資源を投入している。警察が投入する資源は,警官の労働;撮影装置を装備したパトカーなどの機材;税金で賄われる種々の費用などである。いっぽうで,違反者もやはり資源を投入する。それは,違反をしたことの反省であり,違反を繰り返さないという決意である。また,このことを確実にするために反則金を支払うのである。交通取締とは,警察と違反者が協力し資源を出し合って,道路交通の安全向上という価値を生み出す活動である,と理解できるのである。
ただし,交通取締の価値創出構造には,酒呑みのそれに若干の修正を加えなければならない。酒呑みの価値創出は,市場における取引である。市場における取引では,売り手も買い手もそれぞれが選択の自由を持つ。図1において,酒場のオヤジと呑み助は,それぞれ自己の投資はなるべく小さく,価値の分配をなるべく大きくしようとして,取引相手を選択する。呑み助にとっては,良い酒と肴を出しながらお勘定は安い店こそ選択の対象であろうし,酒場のオヤジにとっては,店にヨリ大きな利益をもたらしてくれる客が選択の対象である。呑み助は自分の経験や外部からの情報をもとに,そういう店を探索するだろう。酒場のオヤジは,彼にとって望ましい客に選択されるように,酒を吟味したり肴を工夫したり価格を設定したりするだろう。そのような構造で最良の取引相手を見つけるのが,市場である。しかし,交通取締においては,市場による選択はできない。違反者は,好き嫌いで警官を選択することはできないし,交通取締は覇束的に実施されるものであって,警官の裁量でお目こぼしなどできないのである。
市場による効率的な資源配分のメカニズムが働かないぶん,監査と改善をつねに実施しないと,いわゆる「お役所仕事」の誹りを受けるようになる。それが,冒頭に触れた,警察を揶揄するような戯言の流布に繋がっているのであろう。しかし,交通取締の価値創出構造を理解すれば,それらはあり得ないことと分かるはずである。
交通取締を行う組織は,警察と違反者の両方を含む。警察が組織であることは,だれでも容易に理解できるが,警察にプラスして違反者までを含む組織というものを想像するのは難しいかも知れない。しかも,そのような組織が価値を創出しているなど,なかなか理解できない。しかし,警察だけでも,まして,違反者だけでも交通取締は実施できないし,交通安全という価値は創出できないのである。このことは,上で述べてきたとおりであり,図2からも理解できる。この組織が,交通安全という目的を達成するには,組織を構成する警察と違反者の両方が,目的と価値創出の仕組みを理解することが必要である。とは言え,この組織の中で主導的な役割を負うのは,やはり警察である。違反者に交通の目的を説明するのは警察の役割であるし,交通取締というマーケティング活動が,実際に価値を創出するか否かは,まずは警察の側の行動に掛かっている。
組織が注意しなければならないのは,「手段の目的化」である。警察組織は,マーケティング組織の中の組織である。警察は,1人の警官で成り立っている訳ではない。ある命令系統のもとで,複数の警官が役割を分担しながら,多種の業務をこなしているであろう。そのような大規模な組織で,役割分担が専門化・細分化すると,「手段の目的化」という弊害が生じがちである。交通取締に関しては,交通安全という目的が忘れられ,検挙・罰金徴収という目的達成のための手段が,本来の目的にとってかわる可能性がある。このような本末転倒を防ぐには,上で明らかにした価値創出構造を,取締に直接携わる警官が理解するだけでなく,警察組織全体の認識とする必要がある。筆者の知る範囲では,現在の交通取締業務はおおむね有効に機能していると考えるが,不足があるとすれば,検挙時の違反者に対する説諭や指導,つまり,違反をしたことを反省させるための措置である。道路上の違反行為を検挙する場合,警官の関心は専ら,違反者の機嫌を取りながら調書に署名捺印させ,事務を円滑に終了させることに向かうことがある。そこでは,違反者に反省させその交通マナーを改善させるという努力を,警官が忘れてしまうこともあるだろう。あり得ない検挙数のノルマなどを大衆が揶揄するのは,このような手段の目的化事例を見てのことであろう。
警察の業務には,公共マーケティング特有の難しさがある。つまり,公共財である警察の業務は市場を対象とするものではない。上にも述べたとおり,警察と違反者とも相手を選ぶことができないため,最適な資源配分と有利な価値分配を追及できず,業務の生産性が上がらないことがある。それが,「お役所仕事」と誹られる事態であり,大衆の目には公共サービスの堕落と映るのである。そのようなことを避けるには,市場サービスが市場の圧力を受けて常に改善をしていると同様に,公共サービスも常に業務の見直しと改善を進めるしかない。しかし,このことは取締の現場レベルだけて行うべきではない。なぜならば,いま触れた「手段の目的化」に陥りやすいからである。やはり警察組織全体が交通取締の目的と価値創出構造を理解し,この価値をより大きくすることと,より効率的に達成することを目指して,不断の改善に取り組むほかないのである。なお,ここで言う「業務の生産性」とは,交通取締の効果,すなわち,交通安全の向上のことであって,検挙事務の効率性のことではない。
われわれ市民は,道路交通の利用者でありそこから多くの便益を得ている。そのような立場にありながら,交通取締を忌まわしいものとか必要悪とかと捉えがちである。しかし,本稿で明らかにしたように,交通取締は道路交通を機能させるために必要な活動であって,そのことを理解すれば,違反をして検挙されるまでもなく自分で自身の交通マナーを正しくしなければならないことは理解できるだろう。
また,警察の活動を見守るなり批判するなりにしても,この知識をもっていることが,警察をより深く理解することになるだろう。すなわち,「警察は違反防止をせず,物陰に隠れていて違反を捕まえる」;「検挙数のノルマがあって警官の成績評価に影響するのだろう」;「オレが払った罰金が,警官のボーナスになっている」などが,交通取締の価値創出構造に照らして理論的にあり得ないことを知れば,取締に携わる警官の肉体面・精神面の辛さや,警察組織の苦悩にも思いが及ぶだろう。
この稿をまとめるにあたっては,埼玉県警浦和署の大塚俊輔君と長澤晃君の実直な仕事ぶりに教えられるところが大きかった。若くて爽やかな両巡査には,警察の仕事や交通取締に関して丁寧な説明をいただき,大変に参考になった。ここに感謝を申し上げる次第である。
2016年5月
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処理を委託した廃棄物が横流しされた事件で大騒ぎである。カレーチェーンのココ壱番屋が,不具合の出た食材の処分を業者に委託したものの,業者は処分をせずに,あろうことか市場に横流ししていた。買い物をしていたココ壱番屋の関係者が,スーパーの売り場で自社専用の品物を偶然見つけてしまい,不正処理が明るみに出た。調べを進めると,複数の排出事業者から処理を委託された食品廃棄物を,廃棄物処理業者と食品業者が組んで多くの小売店に売りさばいていたことが分かり,事件の規模がどこまで拡大するのか全容の解明が待たれるところだと言う。
この事件に対して,巷には的外れな評論があふれている。曰く,産廃マニフェストを以てしても不正は防げなかった(もともとマニフェストに不法投棄防止の機能はない)。曰く,排出者と産廃処理業者は,互いの信頼関係に基づいて仕事を進めるしかない(説明になっていない。知りたいのは信頼とは何かだ)。曰く,ビーフカツ5万枚を捨てるとはもったいない;客に説明したうえで食べて貰えば良かった(顧客は美味しく安全なカレーを食べたいのであって,廃棄物を食べたいのではない)。こういった評論ばかりなのも,当然と言えば当然かも知れない。こういう事件が頻繁に起きている訳ではないので,メディアは適切な評論家を探せなかったのだろう。評論家も,こういう事件について調べて考える暇がなかったのだろう。
不正転売事件の本質的な原因は,廃棄物処理サービスという商品の構造にある。廃棄物処理は,排出事業者が業者にお金を払って買っている商品である。普通の商品ならば,お金は買い手から売り手に流れ,商品(サービス)は売り手から買い手に引き渡される。つまり,お金と商品(サービス)は引き換え関係にあり,受け取った商品の品質が払った額に見合うかを知ることができる。しかし,廃棄物処理サービスでは,お金を払って廃棄物を送り出す。買い手の手元を離れた廃棄物がどのような処理をされているのか,普通の方法では買い手は知ることができない。廃棄物処理サービスを買うということは,世話になった恩人にギフトを贈るのにネットで検索した初めての通販サイトの生鮮食料品を選択するようなものだ。お金を払ってギフトを送ったとして,無事届いたことまでは確認できても,届いた品がサンプル写真どおりの品質かどうかは確信できない。たとえ鮮度が落ちたものが届けられたとしても,相手はあなたに苦情を言ってくることはないだろう。産廃の委託処理とは,これに似たバクチ的な側面を持つのである。
良い処理業者を選ぶには,まずはブランドを見ることである。ブランドは,廃棄物処理業者が積み上げてきた実績である。評判の良い業者,業歴の永い業者,施設や技術者そして経営者を見て適切と判断できる業者がある。そうした実績に裏打ちされた廃棄物処理業者の名前こそが,ブランドである。ブランドを確立した業者が信頼できることは,経済的側面から処理業者の行動を予測することで理論的にも説明ができる。長期にわたり適正な処理を行ってきた業者にとって,適正な処理を堅実に続けることと,冒険的な不適正処理を行うことを比較すれば,前者の方が利益が大きいだろう。つまり,ブランド価値を守るためには,不法な処理はできないのである。そう考えれば,ブランドを確立している業者を探すことが,産廃処理業者選びの第一段階となる。インターネットでギフトを送るにも,普段からよく知っている百貨店のサイトならば,まずは安心できるだろうということと同じだ。
つぎに,処理業者を疑うことである。それは,決して処理業者に失礼なことではない。長期にわたり適正処理を行って行くには,排出事業者と処理業者の間の信頼関係が重要である。その信頼関係を構築するためには,排出事業者が処理業者を疑って監視する必要がある。ここで言う監視とは,お金を払って送り出した廃棄物の行方を最後まで確認することであり,継続取引のなかで毎回は無理にしても,機会を見て抜き打ちでも何でもあらゆる手段を使ってチェックすることである。ブランドを確立している処理業者は,むしろそのようなチェックを積極的に受け容れ応えてくれるはずである。なぜならば,善良な処理業者ほど,処理業界は悪質であるとの前提に立って他社との違いを明らかにする努力をしているものであり,他社との差別化の結果がブランドの確立なのである。排出事業者による処理業者の監視は,互いの信頼関係を構築するばかりでなく,その維持のための要素でもある。
最後に,リサイクルには気をつけなくてはならないことにも触れたい。廃棄物処理の目的は,公衆衛生と生活環境保全である。この目的を達成するための手段として,リサイクルがある。しかし,いつの頃からか手段と目的の取り違えがあり,今ではリサイクルが廃棄物処理の目的のようになっている観がある。単純処理していることをCSR報告書に書けないとか,当社はゼロエミッションだとか,自社の廃棄物が焼却や埋立で処分されていることを極端に嫌い,とにかくリサイクルしたことにしたい排出事業者がある。そうした要求に応えて,多くの産廃処理業者がリサイクルの看板を掲げるようになった。そして,リサイクルを標榜せず単純に焼却や埋立だけを行う処理業者は少数派になってしまった。このような状況において,リサイクルは処分に優先するという思い込みが生まれ,リサイクルならば安心だという油断が生じたように思えてならない。リサイクルは,処分と違って,そこで廃棄物処理の流れが完結する訳ではない。その先にも,回収物の再商品化や,再生資源の流通や消費といった工程がある。そうしたことにまで,厳しい監視が必要なのである。
久しぶりにココ壱のビーフカツカレーを食べた。何事もなかったような,美味いカレーである。
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新聞にまつわる混乱が問題となっている。朝日新聞のいわゆる従軍慰安婦報道については,事実と異なる記事によって日韓の外交関係に大混乱を引き起こしたとされている。戦時中の朝鮮半島を舞台に設定したある作家の記述を,創作であるにも関わらず事実として報道し,その後もそのことに関連した恣意的な記事を掲載し続けたことで,韓国内に政府までを巻き込んだ反日運動が展開されるに至った。これら一連の従軍慰安婦報道に対して,多くの反論や反証がなされ,ついに朝日新聞は,それらが誤報であったことを認めたというものである。朝日新聞はまた,さきの原発事故の関係者からの聴き取り調書(吉田調書)をいまだ非公開の段階で入手したものの,そこに書かれている内容を読み誤り,話者の意図と反対の解釈を加えて記事にしたとされている。その解釈が,原子力発電を否定する意見に与するものであったばかりか,電力会社に働く人々の名誉を貶めるものであったことから,論争を引き起こした。当初は非公開だった調書が,やがて公式に公表されると,朝日新聞の解釈の誤りが明らかとなり,新聞社として記事の撤回を発表するに至った。
新聞の混乱を不祥事と捉え,それに対する批判が盛んに行われているが,それらの多くは新聞の構造にまで考察が及んでいない表層的なものである。連日,朝日新聞以外の新聞において,朝日新聞批判がなされ,また,週刊誌やインターネットなどでも多くの新聞批判が掲載されているが,それらの大部分は朝日新聞の思想性や編集姿勢を論じるものである。たしかに,特定の新聞社の特定の事件に対する報道姿勢について論じることは,無意味ではない。しかし,それらの論考を特定のケースについてのみ当てはまるものと,新聞発行事業一般に当てはまるものとに区別することができれば,ヨリ深い考察ができ,新聞業界全体の構造を知って,その未来を予測することにもつながるだろう。
新聞の構造を明らかにするには,商学的な視点,とくにマーケティングの理論が応用できる。社会科学の領域の一部である商学の目的は,人間や組織の間の関係性を知り,ヨリ豊かな社会の実現に役立つ知識を得ることである。一方,マーケティングとは,「人間同士の関係性のもとで営まれる,価値を創り出すためのあらゆる活動」であり,商学研究の中心課題の一つである。このマーケティングの範囲は,単に商取引に留まらず,あらゆる社会事象に応用される。新聞は,社会の構成要素の一つであり,これについても商学は有効な分析を提供すると考える。本論は,今回の新聞の混乱を契機として,新聞の構造と,その社会的な意味について考えるものである。
なお,ここでは,新聞の事業体としての構造を論じることとし,その倫理性や善悪といったことを論じるつもりはない。
新聞とは,書き手と読み手が共同して作り出す価値であって,単純に新聞社あるいは記者の創作物であると理解すると,全体の構造を見誤ることになる。商品は,製造されただけでは価値とならないし,商品が備える機能を以てしても価値ではない。人がそれを所有あるいは消費し,その効用を実感して,商品は初めて価値を発揮する。いっぽう,商品は社会における経済活動によって供給されるが,経済学等では貨幣と商品が交換されることで,その商品はそれを必要とする人に届けられると理解される。しかし,この交換の概念では無形のサービス財や,新聞などの情報財,あるいはマイナス価値を持つ廃棄物の取引を単純に説明できない。また,これは財貨の所有権の移転を説明するものの,効用(価値)が発揮されるプロセスが分かりづらい。そこで,ここでは,新聞を商品というよりも,新聞がもたらす効用に注目して,新聞発行という事業の構造の分析を試みる。効用(価値)の創出に注目した新聞の構造を図 1に示した。
図1 新聞の価値構造 |
その価値創出に着目して構造を捉えれば,新聞とは,新聞社と購読者の協働によって作り出されるものであることがわかる。図 1において,新聞社は,新聞発行行為に対して,記事・解説・デリバリー等の資源を投入する。いっぽう,購読者が新聞に対して投入する資源は,期待・購読・支持などである。こうした資源を用いて,社会事象を材料とし,新聞が発行される。そして,新聞発行によって創出される価値は,世論・言論の権威・購読者満足・利潤などであり,それらを新聞社と読者とで配分するのである。特にここで注目したいのは,新聞社と購読者は,協働することで新聞という価値を創出しているが,新聞社と読者は,価値を共有する緩い結合の組織を形成していることである。
新聞の価値構造を押さえたところで,新聞発行行為が創出する価値のうち,新聞のパワーについて考えてみたい。新聞のパワーは,「新聞の社会への影響力」もしくは,「社会が認める新聞の権威」と換言することができよう。変数【新聞の権威】は,変数【紙面のクオリティ】と,変数【読者数】の積と考えられる。このことを図 2に示した。これら変数は,【紙面のクオリティ】を除いて,循環的に影響し合っている。大衆は,その【紙面クオリティ】と【新聞の権威】に引きつけられて,購読者となる。購読者数の増減は,【新聞の権威】すなわち,社会的影響力の増減に直結する。ここで唯一の操作可能な変数である【紙面のクオリティ】は,客観的な評価は難しく,最終的には購読者のテイストへの適合度に帰せられるだろう。
図2 新聞のパワー |
ここで用いた分析枠組みは,大友(2001)が提示したものと,VargoとLusch(2004, 2008)が唱えたものを援用した。大友は,財貨の真の価値とは,それを所有・消費することによって実感する意味的効用であり,物理的効用は意味的効用とは必ずしも一致しないとし,意味的効用を分析の対象とするべきだとしている。VargoとLuschは,サービス財のみならず財貨がもたらす効用をすべてサービスと表現し,また,価値は貨幣との交換ではなく売り手と買い手の協働によって生み出されるとして,独自の分析枠組みを提案している。VargoとLuschの学説は,Service-Dominant Logicと名付けることで,学説のマーケティングにも成功を収めた事例である。
新聞における書き手と読み手の緩い結合は,「組織」として理解することができる。新聞社は当然のこととして組織である。いっぽう,読者は,新聞を市場でランダムに選択するのではなく,自らの意思で新聞を選択して購読している。新聞社と読者は,価値を共有し,価値を創出するために協働しているのであり,これは両者を合わせた組織として理解できる。ただし,それは,読者にとっては自由に参加できるし退去も自由という,開かれた組織である。
この組織を構成するメンバーの一つである新聞社の目的は,購読者の期待を集め,支持を獲得することである。購読者数が増せば,【新聞の権威】が増し,利潤も増えることになる。すなわち,図 2に示した循環が加速する。図 2において,新聞社は,直接操作できる唯一の変数である【紙面のクオリティ】を調整して,新聞の権威と発行部数の増加を狙うだろう。もう一方のメンバーである読者の目的は,自己の思想・信条あるいは,テイストに合致する記事を読むことである。読者は自らの意思で新聞を選択するが,それは市場でのランダムな選択ではない。自己のテイストに合致する新聞組織に加わることで,満足感と安心感を得る。ただし,読者は新聞組織から自由に退出する権利を留保している。
畢竟,新聞とは設定した読者セグメントから期待を集め,支持を獲得することを第一義的な目的とする組織であって,国家や社会はその組織の外側に位置する存在である。図 1に見る通り,新聞組織は,新聞社と読者のみでも成立する閉じた系である。系において,新聞社は読者の選好を見ながら,もっぱら紙面のクオリティ(テイスト)の調整に注力する。いっぽう,読者が社会事象を見るのは,新聞を通してだけであり,直接見ることはない。それゆえ,読者は新聞記事の真偽の検証をしようにも,他紙との比較によるしか方法はない。つまり,読者は新聞組織からの退出の自由を留保するものの,実際に他の新聞組織にスイッチすることは希であろう。新聞各紙には,それぞれのテイストがあるが,それは読者セグメントの相違が反映されている。初期のある時点で設定した読者セグメントを基本として,時間をかけて新聞のテイストが形成されたのであろう。この組織には,組織外部から関与できる余地は小さい。こう考えると,新聞の読者セグメント設定は,きわめて固定的にならざるを得ず,新聞社の意思で自由になるものではない。したがって,紙面のテイストの変更もほとんどあり得ない。
そして,新聞の失敗とは,読者セグメントに支えられた新聞組織,ひいては思想(言論)勢力の崩壊であって,単に新聞社の経営に留まらない。商学的視点では,新聞の失敗とは,読者との関係性を失うことである。記事の真偽や編集姿勢の善悪に絶対的な審判はあり得ないが,新聞社の経営に影響するほどの購読者の喪失は,客観的に観察できる。そして,読者を失うことは,新聞組織の縮小であり,それに対して新聞社は何もできないのである。
この節で用いた組織に関する概念は,Arrow(1974)及び,上原(1999)のそれを参照した。Arrowは,組織に関する仮説を提示する中で,商取引であっても人間と人間の間で関係を結んでいるゆえに組織として理解すべきこと;組織を性格づけ,組織内の人間を組織に結び付けるものは情報コードであること等を示している。上原は,マーケティングの本質を論ずるにあたり,それを「市場の中に組織取引を貫くこと」と定義づけている。
組織の行動を規定し,また,その伝統を形成するものは組織内部の情報コードである。ここで言うコードとは,符号であり,掟である。情報コードは,組織の外部からもたらされた情報をどのように解釈し,それに対してどのように反応するかという情報処理の様式を決めるものである。また当然それは,組織内部での情報の遣り取りをも決定する。組織とは,複数の人間で構成され,人間の肉体的寿命を超えて存続する存在であるが,その組織の行動様式を決め,組織の伝統として継承されるものは,情報コードである。また,組織は記憶を持たないが,そこでは過去の出来事を記録として保管・蓄積し,また,情報コードを継承して行くことで,組織はあたかも記憶と思考をもった生物のような存在となる。紙面のクオリティほか,新聞社の意思を形作るのは,新聞社の情報コードである一方,購読者を含めた新聞組織を形成するのも,新聞組織の情報コードである。そして,新聞社の情報コードと新聞組織のそれは,互いに対立するものではなく,同心円状に配置されるものと考えるべきである(図 3)。
図3 新聞組織の情報コード |
新聞組織が外部環境の変化に対応してパワーを維持するためには,初期に設定した読者セグメントを移動するか,現在の情報コードをヨリ先鋭化することで更に購読者を獲得するしかないだろう。しかし,いったん設定した読者セグメントを移動することは,新聞組織の情報コードを作り直すことであり,また,それは新聞のブランド・アイデンティティの変更そのものでもあり,非常な困難を伴うであろう。それはすなわち,現在の購読者と決別することであり,かりに読者セグメントを移動しようとしても,移動先の読者はすでに他紙の顧客である。となると,残された手段は情報コードをヨリ深化・先鋭化することであるが,これらもあまり有効な対策とはならない。なぜならば,そこにはもはや情報コードを共有する読者セグメントは存在しないのである。つまり,新聞とは,何らかの外的要因によって読者の選好が外れたとすると,それに対して新聞社側からの有効な対策はなく,加速的に組織の崩壊に向かわざるを得ないのではないか。その意味で,新聞組織とは緩い結合の開かれた組織ではあるが,反面,柔軟性に欠けた脆いものである。
新聞が組織であることを考えれば,朝日新聞の社長が誤報を部分的に認める会見をしたことは,不可解である。社長が会見を行ったのは,購読者の減少が抑えられなくなったためであろう。しかし,誤報を認めることで,情報コードを共有する購読者の減少が抑えられる訳ではないし,そのようなことを新聞社の経営陣が考えるはずもない。新聞組織の外部からは,誤報を認め謝罪することが新聞の社会的責任であるなどと論じられるが,そのような社会的責任は新聞社の経営改善とは無関係である。新聞社社長の会見は,常識的な経営理論では説明できないのである。
そのようなことから,あの会見は,新聞組織の情報コードを更新することの決意であるのと推察できる。この状況下で新聞社がとり得る手段は,いずれも情報コード及びブランド・アイデンティティの変更に関わる困難なものであるが,それでも,新聞社は情報コードの変更を決断したのではないか。そのことを会見によって,新聞組織の内外に宣言しようとしたのだろう。会見の目的は,いったん離れた読者に呼びかけることではなく,むしろ,新聞組織内,とくに新聞社内に対するものだろう。会見後も,朝日新聞には,誤報を認めたことに対する反論的な記事が載るが,それは情報コードの変更に抵抗する社内勢力が存在する証であろう。
今回の新聞を巡る混乱は,朝日新聞固有の原因によるものではなく,新聞組織一般に共通する構造によるものである。どのような新聞であっても,その新聞組織と取り扱うテーマによっては,今般の朝日新聞のケースと同様の展開を経て,新聞組織の崩壊に追い込まれる可能性はある。新聞の思想性や編集姿勢の善い悪いを決める絶対的な基準はなく,新聞に対する社会的な批判や,規範への適合を強いることは無意味である。そして,新聞の価値の最終的な審判は,やはり情報の消費者たる購読者に委ねられている。その意味で,新聞も商品であり,商学の一般的な法則から逃れられないのである。
上原征彦『マーケティング戦略論』,有斐閣,1999年。
大友純「マーケティング・コミュニケーションの戦略的課題とその本質―プロモーション戦略の求心的要因を求めて」『明大商学論叢』,83巻1号,2001年5月,205-213ページ。
Kenneth J. Arrow, The Limits of Organization, W. W. Norton & Company, 1974.
Vargo, S. L. and R. F. Lusch,, “Service-dominant logic: continuing evolution” in Journal of the Academy of Market Science, vol. 36 (2008), pp. 1-10.
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菊練り工程では,その前の段階での加水量が少ないと,粉の塊が硬くて練ることができない。
逆に,加水量が多すぎると,ズルズルの塊になり,ピンと角の立ったそばにならない。
でも,できることならばなるべく加水量を少なくしたいもの。
そこで,今回は,人力での菊練りは諦めて,マシーンによる圧延で代替することにした。
最初の写真が,製麺機だ。 スパゲティを作る道具であり,「パスタマシーン」の名で売られている。 ハンドルが刺さっている写真左下部が圧延用のロール部で,右上は細断用のカッター部だ。 実は,以前からそば打ちに製麺機を使用していたが,細断と,その前処理として麺を帯状に延ばすことを専らとし,菊練りの代替はしていなかった。 |
素人の趣味としてのそば打ちでは,もっとも高価な道具は包丁だ。
そば切り包丁は,出雲の砂鉄から鍛えた鋼のものが高級とされ,1丁が数万円する。
それに比べて,製麺機は高くて1万円というところ。
それもイタリア製でだ。
今回試た菊練りの代替作業は,つぎのとおり。
食卓に供したそばは,2枚目の写真。 茹でても切れない,長い麺線。 香り,喉越し,ともにいままでの自作そばでは経験したことのない,高レベルのものだった。 スパゲティの材料は,デュラム・セモリナと呼ばれる,粉質が非常に固い,粗挽きの小麦粉だという。 その粉は,とても人力で捏ねられるものではなく,このような製麺機で圧延するとのこと。 手打ちそばの良さとは,手作りの良さだ。 しかし,手作りの中に,どこまで手を抜けるかを考えることも,趣味として奥深いと思う。 ともあれ,美味しいそばにありつけて,メデタシ,メデタシ。 |