(社)倫理研究所が発行する「今週の倫理646号」に次のような逸話が載っていました。
塙保己一(一七四六~一八二一)は江戸中期の国学者で、武蔵児玉(現・埼玉県本庄市)に生まれました。五歳で失明し、十三歳の時に江戸に出て雨富検校に入門。その後、賀茂真淵らに国学を学びますが、その卓抜した記憶力により和漢の学に通暁し、検校・総検校となりました。
幕府保護の下に和学講談所を建て、門下に碩学を輩出しました。『群書類従』に続き『続群書類従』などを編纂しましたが、三十四歳から始まったこの大事業の間、出版成就を願っての般若心経読誦は、四十二年間にわたり百万遍の読誦を二回繰り返したと言われています。
盲目という不遇の境遇にあって、常識を超えるような努力を生み出す元となったエピソードがあります。
雪のある日、保己一は平河天満宮へ参詣に出かけました。折悪しく高下駄の鼻緒が切れたので、境内の版木屋(出版業者)の店に入り、紐をいただきたいと頼みました。店の者は無言で保己一の前に紐を放り出しました。目の不自由な保己一がようやく手探りで探し当て、鼻緒をすげようとする保己一を見て、店の者が手をたたいて笑います。保己一はいたたまれず、すごすごと裸足で帰っていきました。
その後、苦心の末に『群書類従』を出版することになった時、保己一は幕府に版元としてなんとこの版木屋を推薦したのです。何も知らない判木屋の主人は、保己一に推挙のお礼を述べました。これに対して保己一は「私が今日あるのは、あの時皆様が私に示された冷たい態度のお陰です。目が悪くても人に必要とされる人間になれば決して人からあのような態度をとられることはないと考え、努力した結果こんな立派な本を出すこともできました。お礼を述べたいのは私の方です」と、見えない目に深い喜びを浮かべて語ったといいます。
塙保己一のこうような行動は、まさに自己実現者の「受容」的生き方ではないでしょうか!?
見習いたいものです。