慈覚大師円仁は目的を達成できず839-7-22出航の遣唐使一行の船に同乗させられ、帰国せざるを得ない状況に追い込まれたが、置き去りにされたとして山東省東端近くにあった赤山朝鮮僧院に留まったことは前回記したところである。  
 赤山僧院所轄の文登県庁(山東省東端より西方50㎞)から、置き去りにされた経緯など報告するよう僧院に対して7月24日に指示されたが、やり取りの後に、朝鮮僧侶等の勧めもあり、円仁は9月3日に天台山行きを断念し五台山を巡礼したい旨申請した。なかなか許可が下りぬ為、山東半島居留の朝鮮人トップの張詠に840-1-19許可取得を依頼した。2月19日に張詠宅に赴き、許可されたことを知り、やっと2月24日に文登県庁で通行証を受領した。早速翌25日通過地点の蓬莱(当時は登州と呼称、文登より西北150㎞山東半島北岸の町)目指して出発した。途中足を痛め小さな僧院に泊まったが、客僧として厚遇された。3月2日には登州に到着し開元寺に寄留した。翌3日に登州県知事を表敬訪問したが知事より米2石(現在の度量衡では260リットル)等食料品他を供与された。3月4日には法会(ほうえ)参加の為知事などが開元寺に来訪、終了後知事の官舎に招待され茶菓のもてなしを受けた。別途五台山等聖地巡礼の為の通行証を申請した。許可待ちの間に唐の15代皇帝、武宗即位の勅書下達儀式があり、その式典に参列することなった。
3月11日登州の西南西240㎞の青州節度使宛の書簡を受領し翌12日未明には出立、青州では龍興寺に寄宿した。節度副使等より歓待され、米3斗等供与され、4月1日には通行証と更に布3反等支給され、4月2日には青州門外まで見送りされた。西進し河北省東南端より少し北側の清河までの間面倒な役人への対応が不要だったと、円仁は述懐している。清河では開元寺に寄留し、役人等の歓待を受けた。清河を離れ石家庄を経由し、河北省と山西省の境界でもある龍泉の関所を通過し、天台山から来たと云う中国の僧侶より、日本の円載等が修行しているとの情報も得た。尚円仁は道中飢饉の状況を目撃したと記している。農民達は本来家畜の飼料である小豆を食していたと記しているが、これは1959-60年の自然災害と農業政策の失敗による飢饉に較べればマシであろう(この時は雑草や木の皮を食べ、犬ネコからスズメ等野鳥まで食べつくした。私の初訪中時には犬ネコだけでなくスズメやハトも見かけなかった)。
 いよいよ五台山に入るわけだが、これまで道中、各地役人の官僚主義、文書主義等形式を重視する実態に何度も遭遇し、あまり時間的な感覚がないことを円仁は体験させられた。これは反面から見れば、唐代も末期に近づいてはいたが、まだ行政が機能していたとも言える。通行証を入手するのにも苦労しているが、これは何もこの時代だけでなく、現在中国に駐在されている方々は多分ほとんど未経験だと思われるが、鄧小平の改革開放の大号令が出るまでは、我々駐在員は地方出張の際には、身元引受機関の同意書を添えて、その都度旅行証を申請し取得せねばならなかった。私の経験上日帰りの客先訪問にも旅行証が必要だったことがあります。北京で万里の長城観光は昔から旅行証が不要だったが、長城のある八達嶺のずっと手前(山間部に入る手前)に鉄道車両などの機構部品を生産するユーザー工場があった。場所は南口、長城行きの道路から途中で西進すると、検問所があった訳です。一方中国滞在中は円仁同様、何処でも今よりも優遇、歓待されました。
幼少時私を親代わりに育ててくれた祖母が生前、「日本の西には唐と云う国があり、ずっと西に行くと地上の極楽があるから、大きくなったら行ってみなさい」と言っていた五台山に、もうすぐ到着です。


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