日中国交正常化への流れ:ソ連から核攻撃を受けるかも知れないと恐れた毛沢東等中国の首脳部は、自国の安全保障をより強化する為にも日米との関係改善を急いだ。我々の仕事相手は実質的に国家公務員の中堅幹部が殆どであったが、彼らの言動は政府首脳の意向を反映していた。商談成立毎に開いた宴会では、「両国人民の友好の為に!」とか、「皆さんの橋梁工作(橋を架ける仕事)への敬意をこめて!」とか頻繁に聞かされた。更に、「本来道のなかったところが道になるのは多くの人達が行き交うからです。皆さんはその先駆けです」とのリップサービスを口にする方々も居た。総じて日本側よりは中国側がより情熱的且積極的であった。
1、 当時の中国貿易は純粋な民間貿易の他に、LT貿易というのがあった。これは高崎達之助氏と廖承志氏が政府の意向を受けて覚書を結んで(1962年9月)、お互いに輸出入したい品目などを提示し合いながら、やや計画的に実行したものである。親中親日人士の人名の最初のローマ字で表記していたが、あまり適切な表現ではないとして1968年からは覚書を取り交わして実施する貿易と言う意味で、覚書貿易(MT貿易)と称するようになった。
2、1971年3月名古屋で開催の世界卓球選手権大会に中国も参加して、友好ムードを高揚させて「ピンポン外交」と言われるようになった。7月9-11日にはアメリカの大統領補佐官であった、キッシンジャーが極秘に訪中していたことが、後日判明した。又、同年10月には国連に加盟して、台湾(中華民国)にとって代わり、中国大陸が常任理事国になった。
3、1972年2月21-28日には、米国大統領であるニクソン訪中となり、上海コミュニケが発表され 日本中大騒ぎとなり、一気に国交正常化の流れが高まった。同年9月には田中角栄首相の訪中となり、国交正常化の共同声明が出されたことは周知の通りです。松村謙三、高崎達之助、岡崎嘉平太各氏等は、井戸を掘った人達と言われ、我々に対しても時には「皆さんも井戸を掘った人達です」とお世辞を言う中国人も何人か居た。飲み水に適した清水(せいすい)が少ない中国大陸では、古来清水のある井戸を掘り当てて人々に飲み水を提供することは大変尊いこととされていた。斯様な事情が、「水を飲む時には井戸を掘った人達を忘れるな!」との格言を生む下地となった。
4、国交が正常化されると、日中間の往来も増加し、暫くは新婚ムードであったが、我々駐在員に対する“国賓待遇”もいつの間にか、なくなってしまった。但し、それまでは殆ど何時も日本側が中国を訪問し、ユーザー工場や研究所を参観していたが、中国側が日本に来るのは極めて稀であり、実質上一方通行だったのが相互往来になったのは嬉しかった。日本の技術力や実力が西欧以上なることを、直接自分の目で見て理解して頂くことが出来、「百聞不如一見」となった。
5、余談だが、国交正常化直後の72年11月初めに急遽北朝鮮に行くことになった。主要な17商社に優先的に商売の材料を提供するとの情報があり、私の所属する会社もその中の一社になっていたが、本社では日本から誰かを派遣する程でもないと判断、当時北京に長期出張中だった私に白羽の矢があてられた。然し困ったことに、パスポートは,Except North Korea(北朝鮮を除く)との条件付となっており、急遽北京飯店に開設の臨時の日本大使館を訪問し、一時パスポートを発行して貰うことになった。形式的には違法行為だが止むなしであった。眼の前でパスポートを作成してくれた参事官殿より、北京―ピョンヤン飛行中にパスポートを交換することが必須と念押された。出発地の捺印がないパスポートで北朝鮮に入国した次第であった。
  
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