1965年9月、私が初訪中し北京駐在した時、北京市は昔からの城壁で囲まれていた。翌年より地下鉄建設の為、一部を除き取り壊されたが、それ以来中国の城壁に関心を持ち続けた。古い町並みは城壁で囲まれ、伝統的な四合院も壁で囲まれ、住宅は防犯扉や鉄格子で防御されていて、違和感があったがやがて慣れてしまった。
國と言う漢字も、内側の小さい口は宮殿を現し、それを戈で守り、外側を城壁で囲むのが「国構え」となっていることを知った。その語源に迫ろう。
☆中国の古代史は、伝説とも言われる4000年前からの夏王朝に始まると理解されているが、近年の発掘調査により大きく覆されている。夏、殷(商)、周何れも黄河流域で発達したが、実は更に数千年前から長江文明とも呼ぶべき文明が盛衰を繰返していた。若干例示すると:
☆ 14,000年前には稲作があった。長江中流の玉蟾山(ぎょくせんざん)遺跡や 仙人洞遺跡を中米共同で発掘し判明した。浙江省の寧波と紹興の中間で発掘された河姆渡遺跡でも大量の米穀が発見されC14鑑定の結果、6-7000年前と判明した。日本や朝鮮 半島への伝播も、定説より早く、3-4000年前と見られる。
☆ 都市国家も殷王朝より2,000年も前にあった。城頭山遺跡では、環濠集落となっており、湖北省天門市の石家河遺跡では南北1.3km、東西1.1kmの城壁跡があり、中央部には宮殿跡があった。杭州市北郊外にあった良渚文化と言われる遺跡は宮殿基壇だけで、南北450m、東西700mもの巨大さで絹織物等も出土しているが、殷時代より1000年以上遡る。
 以上は日中両国の考古学者、樋口隆康、厳文明両氏と哲学者、梅原猛氏との対談形式の「長江文明の曙」からの引用であるが、他にも沢山の地域ごとに文明があったが、「長江文明」で検索すれば、それらの情況は知ることが出来る。又個別には河姆渡遺跡は日本の古代文明とも関係が深い(人種的にもDNA鑑定等で弥生人と共通する人達だった)ことが分る。黄河文明以前の長江文明は、長江中流域の湖北省下流の江蘇、浙江省,巴蜀(四川省)の順で発展していったが、多くの国々は長江の巨大な洪水や北方の騎馬民族の侵攻により衰亡した。其の後の情況も:
☆ 呉越の長期戦は有名だが、BC473には呉王夫差(勢力範囲は江蘇、安徽省南部及び浙江省北部)が越王勾践(勢力範囲は浙江省と江西省の一部)に滅ぼされて、呉は滅亡。その越はBC334に大国である楚(現在の華南各省、陝西省や山東省の一部を勢力範囲とし、王都は湖北省の江陵市郊外にあった)に滅ぼされた。
この強大な楚も陝西省西部に勃興した秦にBC223に滅ぼされたことは周知の通りである。何故だろか?次回更に続けよう

柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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