万里の長城の総延長は、枝分れや二重三重の部分を加算すると8,000kmにも及ぶと言われる。単線だけでも山海関から嘉峪関まで山頂から谷あい、砂漠や平原を含め、延々と3,000kmも続いている。外国人の目には、バカバカしい歴史的建造物と見えないこともないが、史上再三に亘り現在のモンゴル族や満州族の祖先に当たる匈奴等の侵攻に遭遇し、それを防御するものであった。何故、強大な漢民族の祖先たちは周囲の異民族と和平維持ができなかったのであろうか。
この点を理解するのは、現代中国を理解するのに役立つであろう。史実の一断面である王昭君にまつわる話を紹介しよう。王昭君はBC50年頃、湖北省西部の神農架(野人が生息しているとして有名)に近い山村の出身であったが、一方明朗闊達で聡明な女だった。時の皇帝である前漢の元帝が寵した貴妃が周囲の女官共に妬まれ、非業の死を遂げ,元帝は毎日悲嘆にくれていた。そこで国中の役人共は代わりになる美女探しをして遂に王昭君を探し出した。身分が低い為、皇帝の選抜用肖像画に泣きホクロを書き足して献上された。一方皇帝は匈奴との和睦を図る為、匈奴の代表部を長安市内への設置を認め、時には糧食を送る等懸命の努力をした。更に、皇女を降嫁さすべきとの衆議が起こり、皇帝も同意したが誰もやりたくなく、又皇女達も同意する者は居なかった。そこで、王昭君を養女として皇女の身分に変えた上で降下させることにしたが、其の後初めて王昭君本人に目通りさせた。天真爛漫で聡明、且美人であることに驚嘆したが、後の祭りだった。BC33年に王昭君の嫁いだ匈奴のトップである、呼韓耶単于は高齢であり、2年後にはこの世を去り、匈奴の風俗に従い王昭君は単于の長子と再婚した(王昭君はなかなか同意しなかったが)。従来悲劇の皇女と言われたが、そうでもなかった。其の後100年間、平和が保たれた。王昭君の降嫁する前の元帝との会見時、呼韓耶単于は、皇帝の「何故匈奴は時々南侵し、殺戮と略奪をするのか?」との質問にたいし、単于は「モンゴル平原は、寒冷化のひどい気候が続くと、羊も馬もほとんど死滅し、南侵し略奪する以外に生き残る術がない」と訴える。皇帝は「今後その様な時には、十分な糧食を与えよう」と約束した。フフホトの西南郊外にある王昭君の陵墓及び湖北省の生家、双方を私は参観し感銘を受けた。王昭君にまつわる秘話は、漢民族と周囲の異民族との関係を示す重要な要素を含んでいると思われる。現代でも、侵略に備える国防や犯罪に対する防御対策は日本人の目には想像以上に重視されていることを示している。私が2年間生活した 寧夏の田舎町には、ガイジンアパート等なく、家賃も月300元と安かったが、鉄製の防犯扉は付いていた。防犯と侵略は中国理解のキイワードと思うので、更に一回、夏殷(商)より遥か前まで歴史を遡ってみよう。

柳沢経歴 http://www.nakatsu-bc.co.jp/komon/komon-2.html
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