5月22日のブログで、初訪中時代(1965年)の様子を若干記したが、もう少し追記しましょう。
当時中国に長期滞在中の日本人は、単なる外賓ではなく友好人士と見做され厚遇を受けたが、1972年9月の国交正常化以降はビジネスライクな付き合いとなり、情熱的な「おもてなし」は影をひそめてしまった。これは後日知ったことだが、日本側が望む以上に毛沢東をはじめ、中国側が日本との国交正常化を強く望んでいたことを知らされ、特に周恩来総理より訪中日本人や中国と取引する企業には最大限の便宜を計り、配慮せよとの極秘の指示が出されていたことを知った。中国の国際的孤立やソ連との対立、経済科学技術面での遅れが背景にあった。従って(今更言っても遅いが)、尖閣諸島問題等持ち越しとせず、根気よく交渉していれば、解決していたであろう。それ位日米との国交正常化は中国側の渇望するところであった。次にもう少し文革前の1965-6年代の、我々駐在員の生活状況を紹介しましょう。
1、現在と異なり中国人との交流は、商談を含めて先方は必ず複数人数が参加しており、一人は雑談に至るまで記録していた。個人的な付き合い等不可能であったが、お土産なども象徴的な範囲内でしか受け取らなかった。当時並行して付き合っていたソ連東欧諸国の貿易関係者がかなりあからさまに「お土産」を要求していたこととは対照的だった。
2、休日の生活はほとんど娯楽施設がない時代であったので、公園をぶらつく、骨董品街である瑠璃廠(北京前門外西側にある)に冷やかしに行くこと、夏なら国際クラブ(北京飯店東南部にあった)のプールで泳ぐとか、3レーンのみの古いボーリング(倒れたピンは手で並べる)をすること、ホテルにあるビリヤードで遊ぶくらいであった。更に食事は糧票のない外国人は原則として一般的レストランには入れないので、ほとんどホテルですませていたが、短期出張者接待用としては指定された高級料亭を利用した。例えは北京ダックの全聚徳、ジンギスカン料理の烤肉季、しゃぶしゃぶの東来順、山西料理の晋陽飯荘、四川料理の四川飯店(四合院の豪邸旧家)、宮廷料理の彷膳等十か所程度だった。尚王府井に一軒のみあった日本料理店、和風は文革が激しくなると閉鎖されて、北京飯店に五人百姓が営業を始めるまで、10年余日本料理店は皆無となった。上海でも同様で南京東路に日式火鍋と言うすき焼き屋が一軒のみあった。但し上海の和平飯店では1965年末には年越しそばを用意され、元旦にはお雑煮が出されたのには感激したものだった。尚、歌舞音曲への招待、工場や人民公社参観等中国側より頻繁に手配されていた。
3、ここでいう中国側というのは、中国国際貿易促進委員会(貿促)という政府機関である対外貿易部の外郭団体のことであるが、当時日本の駐在員の身元引受人はこの団体であった。然しこの団体は便宜上民間組織の形態を装っているが、殆どのスタッフは各種政府機関からの出向者であった。理化学器械や工場の生産設備の輸出を担当していた私は、関連する政府機関からの出向者と仲良くなり、技術交流と称して関係メーカーの技術者による製品説明会を頻繁に実施し、同時に中国の工場や研究所を可能な限り広範に参観したもであった。
貿促は技術交流や展覧会の受け入れ窓口でもあったが、健康問題を含め何でも、何時でも相談に乗れるよう、日本人駐在員の定宿であった新僑飯店一階の169号室に、男性スタッフ二名が交代で常駐していた。商談やクレーム交渉が中国側の理不尽な要求,主張により行き詰まった時には169に相談すると、立ちどころに解決することもあった。

国交正常化前の、文革初期(1966-67)の状況を次回更に紹介しましょう。


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