2016年 9月の記事一覧

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16年09月28日 14時32分33秒
Posted by: yanagizawa


1980年4月より一年間、私は上海に代表事務所を開設し駐在したが、少し当時の上海体験や見聞を紹介しましょう。
 1、
既に身元保証人は以前一律中国国際貿易促進委員会(対外貿易省の外郭機関)だったのが、取引関係の多い貿易会社となっていた。上海に到着すると私の身元引受会社である上海外貿公司の担当者が出迎えてくれたが、宿舎兼事務所として手配されていたのが、元大豪邸をホテルに転用した東湖賓館(花園飯店の3ブロック西方)だった。客室10室だが大きな庭園があり、邸宅としては兎も角事務所としては不便この上ないところだったので、早急に最も便利なところへの引越しを要請した。結果として中山東一路の上海外貿公司より100m余り南寄りの和平飯店北楼であった。東京で言えば麻布から有楽町に引越したようなものだった。当時上海ではまだ現地人を雇用出来なかったので、ホテルの従業員を実質的にアシスタントとして代用してしまった。その代わり地方出張する毎に若干の土産を買ってきた。ホテルでの食事代も当時は安かったので、殆ど8階の黄浦江寄りの食堂で船の汽笛を聞きながら食事をした。
2、当時電話の普及が遅れており、地方のユーザーとの連絡は殆ど電報だったが、漢字を4桁の数字に置き換えていた。その便覧としてのコードブック(電碼本)を使わねばならず不便だったが、受信の場合ホテルの西隣にある電報局の女性スタッフに頼んだら全て漢字に置きえてくれた。ある時目の前でその作業をしてくれたが、9000もある四桁の数字を何も見ずに漢字に置き換えてくれ職業柄とは言えその記憶力とスピードに感嘆したものだった。
3、当時の上海は旧態然としており、最高のビルは人民公園(解放前は競馬場)北口前にある23階建ての国際飯店であった。次が17階建ての上海大厦(元は米国のブロードウェイマンション)で、和平飯店は宴会場に利用されていた一部分(昔はオーナーの住居だった由)のみが、14階建だった。当時上海では新築のビルは殆どなく、一般家庭の住居面積も平均6㎡/人と中国でも最低レベルと言われ、内々に訪問した友人宅ではベッドの一つは何と壁掛け式だった。
4、上海は伝統的に市民意識が強く、ユーザーの一つであった上海蓄電池廠は希硫酸を垂れ流ししているとして、周辺の住民から垂れ流し停止を求める激しい運動が続き、結局浦東地区に移転を余儀なくされた。新工場も訪問したが、敷地の一角をボーリングしたら温泉が出たとして、思わぬ余禄に喜んでいた。
5、一方コスト意識も強い上海人らしい事柄として、輸入した高額な分析設備の稼働率を上げる為、購入できない他の類似研究所から依頼分析を受けたり、設備を時間貸ししているところもあった。北京や他の地域のユーザーが稼働率20%未満でも何等問題視されていなかった当時としては、やはり上海は違うなと思わされた。
6、余談であるが文革時代の後半、権勢を誇った四人組の裁判が(80-11-20~81-1-25)、公開されて、1980年秋に導入されたばかりのホテルのテレビで見ることが出来た。江青がわめいて護送者を振り切る様子が昨日のことの如く記憶に残っています。
7、元々フランス租界の中心的存在だった錦江クラブ(現花園飯店)では、オールド上海ジャズバンドが演奏しており、時々当時珍しかった缶ビールを差し入れて演奏曲目をリクエストしたのも昨日の出来事である様な気がします。

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  柳沢経歴:以前のURL表記にミスあり、下記にてよろしく。 
        https://www.consultant-blog.com/yanagizawa/
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16年09月17日 15時19分31秒
Posted by: yanagizawa

文革時代の1966-76の10年間、日本で広く理解されている状況と異なり、基本的には親日的であった。又昨今問題にされる中国人のモラルレベルも、日本以上と言えるくらい高かった。改革開放政策が行き渡り始める1980年代以降、経済成長に反比例するが如く、モラルレベルが下がり出し、モラルレベルの高揚を訴える論調も出始めているが、今なお歯止めがかからない状況にあるのは周知の通りです。更にその奥底には3,000年前の「鼓腹撃壌」の詩に詠われている如く、「気ままに生きてゆき、為政者のご意向などには我関せず」との、中国人特有の人生観が流れていると言えよう。一方、表層的な動向は10年か20年くらいで大きな変化を見せているのも事実である。
1、 文革の如く一面過酷な時代でも、多くの中国人は人生を楽しんでしまう性行を持ち合わせており、中国で仕事をし生活をしていた我々外国人にもその余波は及んでいた。例えば革命的と称される歌舞音曲が盛んに公演され、その鑑賞に外国人もよく招待された。オペラ、ミュージカルとも言える音楽劇、バレエ、映画等の形式となり、伝統的な京劇でさえ“革命的”に改変されていた。演目で一番多かったのは、紅色娘子軍(海南島を舞台にした婦人部隊の活躍)や白毛女(地主に迫害され山中に逃げて頭髪が真っ白になった娘)で夫々、10回以上見せられた。他に直ぐ思い出すもののみでも、東方紅(壮大な建国物語)、南戦北征(壮大なスケールでの国共内戦の状況を映画化)、他に紅灯記、沙家浜、地下道戦、知取威虎山等がある。殆どは蒋介石率いる国民党軍との内戦を題材にしており、悪役は国民党幹部や大地主であった。現在の如く荒唐無稽な筋書きでの日本軍を悪役に仕立てるものはなかった。時代背景を体験的に知る年配者が多かったからであろう。又人民大会堂を超大な劇場とした公演も多かった。
2、 戦前の日本政府を、ヒットラー率いるナチス同様と見做す傾向のある現代であるが、当時日本は五族協和を唱えていたが、孫文や毛沢東も同じく五族協和を唱えていた。相違点は主導権を誰が握るかと云う点と、孫文や毛沢東の唱える五族にはチベット族やウイグル族を含むが、日本側の言う五族には、その代わりに朝鮮族と大和族(日本人)を含むことであった。共通する三族は漢民族、モンゴル族、満州族であった。戦前の日本は政府だけでなく、日本人も極悪非道な或いは凶悪な民族性を秘めていると見做したいとの政治的な思惑が背景にあるのが問題であろう。戦前日本が支配した、又は関係が深かった地域の中国人は現在大変親日的であるが、好悪関係なく接点のなかった地域の中国人の対日感情は良くないことを考慮すれば、マナーの悪さには多少目をつぶっても、観光客を含めより多くの中国人が来日し、実際の日本を見て日本人と交流して貰えるよう、官民共に努力することが、外交的戦略になろう。
3、 1975年サイゴン(現ホーチミン市)陥落を以て、ベトナム戦争は終結したが、それより5-6年前、ある中国政府中堅幹部は「現在のベトナム軍は世界最強である。何故なら沼地のような水中で米軍を迎撃する為に何時間でも平気で待ち伏せできる。一方の米軍は前線に迄 ディーゼル発電機と冷蔵庫を持ち込み、冷えたビールを飲もうとするからだ」と言ったことがある。その後、中国は懲罰と称してベトナムに侵攻したが、追い返され外交関係も悪くなった。一方米越関係は敵対関係から友好関係に変化した。日中国交関係修復時に、再三再四中国側が強調していた「共に覇権を求めないようにしよう」は、忘れてしまい、どうもあまり歴史的教訓とはなっていない様である。

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