2016年 7月の記事一覧

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16年07月28日 14時24分48秒
Posted by: yanagizawa

 文革は、実権派とか走資派と呼ばれた劉少奇や鄧小平に代表されるグループと毛沢東、林彪に代表される“教条派”との権力闘争であり、用済みの紅衛兵は農民達に学べとして、中国西方の貧困地帯に追いやられたが、皮肉な現象が現れた。“教条派”の主張のポイントは、格差排除、平等主義、労働者重視であったが、文革中でも既にこの趣旨に反する事態が発生していた。
1、 四人組の誕生:毛沢東に信任されNo.2と言われた林彪は、毛沢東に替わろうとして発覚、家族共々、1971年9月飛行機で逃亡中にモンゴルで墜死してしまった。ところが今度は毛沢東の第四夫人の江青中心に張春橋、姚文元、王洪文等四人組が実権を握り始めた。1973年8月には党の大会で、揃って政治局委員となり、毛沢東より絶対的に信頼されていた周恩来を追い落とそうとして、批林批孔なる運動を始めた。現状維持派として、孔子の名を利用していたが、誰の目にも周恩来を指していることは、現地で生活していれば容易に分かった。
2、 腐敗した特権階級を排除するはずの四人組は、贅沢をし始め、北京の故宮の北側にある景山公園はある日突然一般公開を中止してしまった。景山公園にある人工の丘は高さが30m余あるが、元々は北海公園の池や故宮周囲のお堀を掘った土を積み上げたもので、故宮の全貌を見渡せる処として、観光客や市民に愛されていた。後日乗馬が好きな江青専用の乗馬場になってしまったことが判明した。更に江青はポルノ的な映画が好きだったとのことで、個人用として極秘にそのような映画を香港等から輸入し、旅先にまで映写機など携行したことも判明した。
3、 文革が始まり3-4年すると従来の政治機構が否定され、革命委員会なる組織が市、省等段階毎に設置されていた。そんな中で、1972年1月に私は天津で自社単独で小さい展示会を開催し、現地で運営に当たった。展示会は順調に進み、展示最終日に現地でお世話になった方々への答礼宴会を開こうとして、事前に展示会受け入れ団体である中国国際貿易促進委員会天津分会の担当者に、どんな人達を招待したらよいか名簿を出してくれと頼んでおいたが、出てきた名簿の人達は天津市革命委員会の人達が多く、その殆どは展示会とは無縁であった。当時外国人の開催する宴会に出席できることは大変貴重で、名誉なことと理解されていたが、
これを容認したのでは文革の精神に反するのできっぱり断った上で、展示会に直接協力した人達は全員招待するので、その積りで名簿を作り直してくれと依頼した。その趣旨通りの名簿が出てきて、計81名であった。凍り付くような夜も交代で、展示品の警護をしてくれた解放軍の若い兵士、掃き掃除やお茶出しを担当したおばさん達、運輸関係者、大工、美術工等も含んでいた。半数以上は外国人の宴会等に呼ばれることは夢にも思わなかったらしく、宴会の九卓を回ってお礼の乾杯をしようとしたが、みんな同意せず一人ずつで乾杯だとして譲らず、茅台酒(マオタイシュ、56度ある)を81杯以上飲む羽目になってしまった。
4、 文革中は歴史的文物が否定され、破壊されることが多かった。その為か殆ど全てが偽物か複製品と言われていた骨董品街、瑠璃廠に本物が放出されているとの噂が在京日本人の間で広がり、私も若干買い求めた。友人の一人は大量に買ったが帰国後あまり考えず知り合い等に配ってしまい、後日失敗したと言っていた。結婚式も現在は大変派手になっているが、休日に学校の教室を利用して披露宴をやっているのを、たまたま見たことがあるが楽しげであった。
5、 当時はスパイ容疑にかけられる恐れが大きく、“技術交流”の打合せを兼ねて商業情報を入手するには、貿易公司の商談室で会うとか、政府省庁の会議室で会う他は、意図的にホテルのロビー等、人目につくところで会っていた。


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16年07月21日 16時10分26秒
Posted by: yanagizawa

1968年は訪中しなかったので、思わぬ出来事があった1969年に就いて紹介しましょう。
1、69北京上海日本工業展覧会開催の為、3月北京に出張し展覧会も順調に開催されたが、最先端技術を備えた製品は売却不可との日本政府の条件付き出品だったことが、大きな問題となった。中国側や出品者一部が条件撤廃のデモを計画したが、当時現地日本側最高責任者だった宇都宮徳馬氏(国会議員でもあり、友好人士と見られていた)は、日本政府への反対デモを外国である中国で実施するのは、適切でないと判断し、デモは取りやめた。これに対し中国側は上海での開催には協力できないとの意向が示され、北京だけの開催に終わった。当然ビジネスには悪影響が出た。
2、1958年5月2日には、長崎で開催中だった中国切手展覧会で、掲揚されていた中国国旗を右翼の青年が引きずりおろすと言う事件があったが、中国とは国交がなく台湾の蒋介石政権と国交関係を維持していた為、政府は「法律的に国旗ではなく微小な器物損壊」として処理した為、国家の尊厳が侮辱されたとして、当時の中国首相、周恩来は日中間の貿易関係を全面的に中断したことがある。時には経済的損得より、政治的判断を優先する中国であったが、爾来日本では政経分離が叫ばれるようになった。
3、教条主義的な中国の文革路線とソ連の現実的路線との論争の影響もあり、中ソ関係がぎくしゃくしていたが、3月2日にはついに黒竜江支流のウスリー川の中州、珍宝島(ダマンスキー島)で軍事衝突が発生、8月には新疆ウイグル自治区西北,塔城市付近でも国境紛争が発生し、中ソ関係は極度に緊張してきた。北京で仕事し生活していた我々にもひしひしと感じた。
ソ連が核攻撃も辞さずとほのめかしたことから、毛沢東は核シェルターの建設や東北地方に偏重していた重工業を南西部に移すよう指示した。北京でも多くの公園等で地下壕堀りが進められた。十数年後、釣り道具を買おうとして秘書兼運転手に適当な店に案内する様頼んだら、天壇公園の一角にある地下街に案内された。核シェルターの転用と言うことで、中には理髪店や簡易宿泊所等もあったが、入り口は何段階にもなっており、頑丈な鋼鉄の扉もあって、本来は正に核シェルターであった。
4、文革終了後の1977年頃から頻繁にユーザー工場訪問をしたが、その中には四川省徳陽市より40㎞西北の山村とも言うべき漢旺にあった東方タービン工場もあった。周辺は極めて貧しく、たばこは一本ずつ売っており、蒸留酒の白酒も計り売りしていた。その50㎞西方は数年前発生した四川大地震の震源地、汶川である。成都の南方70㎞の眉山市にも郵電部傘下の工場がありユーザーだったが、人工水晶を生産する圧力窯は何と、大砲の砲身だった。街中には草鞋(ワラジ)を履いた人々が沢山居り、記念に買おうとしたが、何処にも売っておらず、履いている人に聞いたら、「こんなもの自分で作るんだ!」と、何をバカなことを聞くんだ、との表情をされ叱られた。然し、改革開放後も訪問し、更に60㎞南方の巨大な岸壁大仏で有名な楽山市や我眉山市も訪れたが、何とあの草鞋がお土産として売られていた。我眉山市は軽井沢の如く自然環境が良く、高地である為涼しいところだったが、宿泊した部屋は朱徳将軍も利用したということで、  バスタブが無造作に大きな部屋に、木材の足下駄を履かされて置かれていた。
5、当時、中国では盛んに「四つの敵」論が叫ばれていた。即ちアメリカ帝国主義、佐藤反動政府、ソ連修正帝国主義、宮本修正主義集団(67-3-19付け赤旗の論文で対決決定的に)。全く仕事にならないなと、駐在員一同悩んだものであった。
  次回以降、更に文革余波と国交正常化へのうごめきについて紹介しましょう。

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16年07月17日 13時53分55秒
Posted by: yanagizawa

 1966年4-5月の広州交易会参加中に、中国側の手配で人民公社見学の機会が2度あった。
農地は国有で人民公社が管理、農作業も食事も集団であった。子供達は粗末な衣服、全て裸足で、私の小学低学年時代(昭和20-22年)とそっくりだった。然し広州市西方にあった大瀝人民公社ではトラックは3台のみの所有なのに対し、広州市北方にあった東方人民公社には52台あると言われ、大きな格差に驚き今でも覚えている(人民公社の人口は大体5-6万人規模)。尚、屋根のみある大きな小屋の如き食堂で昼食をご馳走になったが、ホテルの食事より美味しかった。
1、 紅衛兵活動が盛んな1967年5月に天津で日本科学機器展覧会を開催、同僚二人と共に参加したが、展覧会以外にもいろんな活動があり、貴重な経験と思い出来るだけ参加した。その一つが唐山市北郊外にあった沙石峪と言う生産大隊(人民公社内の区画、日本の農村の大字相当)であった。山西省昔陽県にある有名な大寨大隊に次ぐ模範的農村と言われた。石ころだらけの極悪の自然条件を自力で改善し、豊かになったと言うことであった。石ころを拾い集め路肩用等に徹底的に利用し、桃、李(すもも)、リンゴ等も栽培している多角経営と判明したが、大寨同様大きな嘘があった。それは自力更生ではなく、解放軍が主として夜間労働で内密に支援したことが、文革終了後判明したことである。当時は「農業は大寨に学べ、工業は大慶に学べ」と言われ、文革終了まで続いた。尚焼き物の町、唐山市の招待所に一泊し、市内も参観したが、乳白色の陶器、オモチャの如き可愛い唐山駅が印象深かったが、9年後の1967年7月28日の唐山大地震で壊滅的被害を受けた。
2、 天津にいた一か月余の中で一つだけ不愉快なことがあった。中国が水爆実験に成功したとの報道があり、左翼の連中は中国の“核”は正義のものでありお祝いしようと言うことで、街中に繰り出してデモ行進したが、中国側も喜んで日中連帯の全体行動にしてしまい、展覧会出品への政府の規制反対と一括で、参加を余儀なくされたことであった。
3、 北京に戻った後も商談相手となかなか会えず、仕事時間は1/3、学習会、参観活動が続いた。日本人の主要居住地である新僑飯店の各階を東西に分けて、毎週の如く毛沢東語録を読み討論会を続けた。この語録の内容は毛沢東思想の要約版であり、今でも中国の憲法では最も重視されるべき指導理念とされているが、回顧してみて今なお正しいと思われる点も少なくないと思われる。即ち「仕事とは困難との闘争である」とか、「人民は解放を求め、民族は独立を求める。これは時代の趨勢であり幾多の紆余曲折を経るが、必ず成功する。反動派の抑圧は必ず失敗する」と云うものである。人民の解放や民族の独立擁護勢力だった解放軍や共産党が何時の間にか、抑圧勢力になってしまったことは皮肉である。然し、当時ソ連東欧諸国の在日通商代表とも仕事の関係で付き合ったが(みんな日本語が素晴らしく上手だった)、彼らは平然と「我々も何時の間にか支配者側になった」と認めていたのが、印象深かった。
4、 余談:1965年9月私の初訪中時、北京には当時民間大使と言われた西園寺公一(明治時代の元老、西園寺公望の孫)が住んでおり、9月30日国慶節前夜祭としての国宴出席の直前に我々訪中団は周恩来総理と会談し、記念撮影をしたが、彼も参加した。同伴されていた彼の夫人,雪江さんは大変な美人であったが、元新橋芸妓だったとのことで、強い印象に残った。彼の要求で唯一の日本料理店、和風の畳入れ替え費用をカンパしたが、文革勃発により実現せず残念だった。尚ポルポト時代のカンボジアのシアヌーク殿下も新僑飯店近くの邸宅で亡命生活をしていた。北京西郊外にある友誼賓館にもインドネシアのスカルノ大統領がクーデターにより失脚した後、多数のインドネシア人が亡命生活をしていた。
 次回は「ソ連対中核攻撃か?」と言われた1969年の現地状況を紹介します。


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16年07月09日 15時54分07秒
Posted by: yanagizawa

 60年代中国に駐在事務所を置ける商社は友好商社と呼ばれた。中国を代表するのは台湾にある政府ではなく、北京にある政府であると認めた商社を意味した。日常生活や仕事面で国賓待遇を受けたが、一つだけ不便なことがあった。それは外交関係がない日本の商社は現地人を社員として雇用できなかったことである。
 然し、友好商社の中には「御三家」と呼ばれる商社があった。それは日本共産党の指導下にあった睦商事、芳賀通商、三進交易のことであり、彼らの事務所では多くの中国人スタッフが働いており、商売の材料も優先的に提供されており、大いに繁盛、利益の一部は上納されていると言われた。中国側に聞くと「同志としての政治的配慮である」とのことであった。
1. 然し文革が始まり暫くすると、突然御三家は北京から姿を消してしまった。中国共産党と 日本共産党はイデオロギー面で厳しい対立が生まれ敵対関係になったとのことであった。これほど極端ではないが、北京在住の日本人の多くは左翼的であったが、中国側の内部に深入りし過ぎて居る人達もおり、中には思想闘争的に中国側とやり合う日本人もいた。文革が進む中でその中の幾人かはスパイ容疑をかけられ拘留されたり、国外追放となった。有名人では副社長にまでなった日経新聞の鮫島記者も含まれていた。以上の方々は文革終了後、中国側から詫びが入り“前科取り消し”となった。
2.「将来我々が政権を取ったら、君等右翼はただではおかないからな!」と酒飲み話ながら脅かしをかけてくる業界仲間までいた。然し、スパイ容疑や反中国分子と見做されてしまった連中は皮肉なことに、斯様な連中であった。業界仲間から右翼呼ばわりされた我々は、中国側とは無用な思想闘争は一切行わず、与えられるいろんなチャンス(参観、観劇、学習会)には、むしろ積極的に参加したものだった。学習会では毛沢東語録の修正版等作り楽しんだこともあった。後日中国側より「我々は本当のところ非武装中立を唱えている日本人は信用していない。何故なら彼らはアメリカの核の傘に守られながら、安心してあり得ない非武装中立を叫んでいる。彼らは嘘つきだ。然し都合が良いから利用しているだけだ」と聞かされたことがある。
3.当時一部の日本の報道で、各種学習会や参観活動に参加していた我々若者に対し、「友好商社の一部の若者たちは中国で洗脳され、武装闘争の訓練を受けている」と言われたことがあるが、事実ではなかった。確かに解放軍駐屯所の参観活動もあり、私自身2回参加した。広州交易会参加の為出張した時、広州空港の北方、白雲山麓にある「白雲部隊」であり、もう一回は天津に近い「楊村部隊」であった。中国側の見せたいポイントは自力更生の精神を実際に生かし、農業、牧畜業や付随する各種加工職場も併設されており「軍服と兵器以外は全て自家調達している」と自慢していた。もう一点は民兵訓練もしているとのことで、小さい子供、父親、祖父三代の射撃名手の実演等も見せられた。尚当時一定規模の工場には「武装部」と言う組織があり、民兵訓練と兵器の管理をしていた。
4.天安門前広場での紅衛兵100万人大集会にも招待され観閲台から眺めたが、車道両端には蛇口付き水道管を設置、歩道では100m毎に十個くらいある長方形の鉄板が外され、天幕で囲い臨時のトイレとされ、500m毎には医師や看護師による救護班が配置されていた。然し、やがて紅衛兵は用済み存在と見做されるようになり、68-69年には知識青年上山下郷運動と称され、農民に学べとして西方の最貧地帯に追いやられた。後日この政策は少数民族居住地区の漢民族化、同化政策としても利用されたと判明、中国政府の深謀遠慮でもあると判明した。

 
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16年07月04日 14時06分01秒
Posted by: yanagizawa

   1965年9月から北京駐在し、12月~翌年1月上海出張、更に4-5月の広州交易会(正式には中国輸出交易会)参加の為、広州出張、その帰途5月17-20日は武漢に立ち寄り、輸出した設備の納入検収立合い等したが、多くの中国人は貧しいながらも穏やかで、劉少奇や鄧小平の進める経済調整政策が比較的順調に進み、人々は前途を楽観しているように見えた。1、 北京は周囲が城壁で囲まれ、古い町だったが物価は安く、街角で売られていたアイスキャンデーは3銭と5銭の二種類、景山公園の入場券も3銭、王府井の北角で糧票(以下※を付した文字は不詳ならネット検索乞う)なしで無理やり食べたラーメンは10銭だった。西単の餃子屋でこれも店主の好意で糧票なしで、二人で餃子、豚足を食べ茅苔酒を飲んだが、一元でお釣りが来た位であった。お札も5元札が最大であったが、日本円との兌換率は1元150円前後であった。66年3月に邢台大地震(※)が発生し一万人近い死者が出たが、当時現地では救援活動主体の報道で、爾後災害報道のスタイルになったと思われる。2、 66年5月武漢より北京に戻ると不可解な様相を感じるようになった。一緒に北京に駐在していた大先輩は昔延安で毛沢東や周恩来とも生活を共にしたと言われる人物で、中国側に人脈もあり中国語も流暢であった。一方私は中国語は話せず、実務担当者として先輩に通訳してもらうことも多々あったが、燕山夜話(※)という随筆集(’62年出版)が反党的だとして批判されたとのことであったが、右翼的だと見做されていた私にはあまり説明してくれなかった。当時北京駐在していた商社マンは、共産主義を信奉する人達を含め、左翼的な人達が多かった。彼等には大きな思想問題との共通認識があったと思われ、仕事そっちのけでこそこそした動きが多かった。これが文革(文化大革命)の始まりだったことを、やがて知ることになった。
3、 66年7月末に帰国し、翌67年5月に天津で開催の日本科学機器展覧会に出品、参加しその後北京駐在する為、再度訪中したが中国の様相は一変していた。街中大字報(筆で大書された壁新聞)だらけで、中国ではこれほど書家がいるのかと冗談を言い合った程である。商談の前には革命歌を歌ったり、毛沢東語録を日中双方で読んだりした。中国の担当者の中には、外国人である我々にまで語録を読ませるのに抵抗があるらしく、もじもじしている場合があったが、一生に一回の貴重な体験と思い、むしろ我々“右翼連中”が積極的であった。紅衛兵との座談会にも進んで参加して率直な意見を披露した。ある座談会(泣く子も黙る首都第四司令と言われる相手)で、「皆さんは国際的連帯を示すため、テレビを所有する等贅沢をしないで、カンパすべきだ」と言われたところ、展覧会に参加していたメーカー技術者は「いやだ!大体それでは不労所得を認めることになり、搾取ではないか!彼等は自分で真面目に働けばよい」と反論。相手は話題を変えてしまったこともある。尚展覧会開催の公園には屋外プールもあり、日中双方昼休みには一緒に泳いだりした。会議、集会等が多く中国全体の経済面では大停滞を余儀なくされたが、国中が殺し合いをしていたかの如く言う者が日中双方に居るが、嘘である。中国の年配者は殆ど被害者であったの如く言うが、当時若者の99%以上が紅衛兵だった時代で、それなら加害者でもあったのではないかと言うと、誰でも黙ってしまう。現地での見聞に基けば不法な過激な行動をしていた連中は数パーセントだったと断言できる。中国の歴史では数十パーセントの死者を出した戦乱や大飢饉が何度もあり、日本や欧米の常識では図り知れないことを我々は知る必要があろう。
4、 何人かの日本人駐在員がスパイ容疑で拘束されたが、殆ど左翼的な連中であり、私の如く右翼的と言われた人々は一人も拘束されなかった。何故か、続きは次回に!


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