かなり間があいてしまったが、前回のリーダーシップの在り方に対比して、今回の大震災+原発事故に見る日本国民の在り方について考えてみたい。両者を経営論に置き換えてみれば、社長と社員の在り方というところであろうか。

今回の大震災では、未曾有の被害を前にしても略奪はもちろん、全く混乱をきたさず、不平不満も口にしないで困難を黙って耐え忍ぶ日本国民の姿が海外でも評価され、どうしてあのように冷静になれるのかということが真剣に議論されたという。前回述べたリーダーシップの弱さに比べて日本国民の強さが浮き彫りにされた形だ。

しかし、良く考えてみると、この両者は対比する対象というよりは、表裏一体の関係にあり、分かち難くつながっているのではないか。弱いリーダーシップは統制のとれた「強い」国民に支えられて来たのであり、その国民性が弱いリーダーシップを生み出して来たとも言えるのではないか。

これらの関係は、正常時や好況期には日本的な独自性を保ちながら事をうまく回していけるが、非常時や不況期になるとその強さ・弱さが形を変えて端的に現れる。太平洋戦争を主導してしまった愚かな行為とともに、戦後の復興や今後の東日本の復興を考えれば、その現れ方の日本的なパターンと言おうか、少々極端さが感じられる。

困難を耐え忍ぶ日本人の姿について、具体的な一人一人の心情の中には、自分だけが困っているのではないから、いやもっと困っていたり、悲しい目に会っている人達がたくさんいるのだから、自分が不平不満を言うわけにはいかないと言う気持ちがあるという。素晴らしい共感能力と自己抑制もまた深層できっとつながっているのだろう。

しかし、この性向が形の上で「自分だけ」を認めないことになってしまえば、良い意味での「個人の突出」をも認めないどころか嫌悪することにもなる。何らかの状況が重なってこのようなモードに入れば、優秀な潜在力のある人が実力を発揮して「目立つ」ことに対してもマイナスの評価を与え兼ねない。たまたま優秀な人がリーダーになればうまく回転するが、リーダー候補の段階では俗に言う「出る杭は打たれる」現象が頻発する。

そんなことは、経営においてはトップダウンで選抜していくから心配はいらないと人も多いだろう。確かに一応の民主主義の上に立っている日本国民と政治家の関係ほど、ひどくはならないかも知れない。

しかし、中小企業も例外なくグローバリゼーションの中でしか生き残れなくなった今日、「日本的民主主義」の限界(その到達レベルが十分高くなかったと言っても良い)は目に見えてきており、日本的良さは残しながらも、基本的な価値観や判断・評価基準を世界に通用する普遍的なものにする必要が明らかになって来たと言えるのではないか。

結局のところ、強い共感能力と共同体意識を持った日本国民の強さが、利益誘導だけの旧来の政治家を選んだり、タレント政治家を首長に選ぶポピュリズムに陥らずに、多数の意見を正面から戦わせながら真の優秀なリーダーを一人一人が見識を持って選び出す「自立した強さ」へと進化するためにはどうしたら良いのか、ということが問われなければならない。

経営においても、組織が大きくなれば、トップに必要な情報は上がらなくなり、本当の専門家が誰かも分かりにくくなる。そういう意味で、不幸にして「おみこし経営」に陥ってしまう危険性は、大企業程大きいだろう。また、企業統治は民主主義ではない点も見逃せない。

いずれも答えは、簡単ではない。しかし、共通している課題やそれらの本質を突き詰めていけば、一つの答えに行きつく、と私は考えている。それは、一人一人の国民あるいは社員の教育である。教育の持っている様々な意味や側面について、次回以降述べていきたい。

ヴィブランド・コンサルティング
代表取締役 澤田康伸